つくるな!

オマル マン氏との対談、第27回目。

K「オマル マンさん、こんばんは。前回前々回からの脳科学者・茂木健一郎氏の話題で。以下、私のFecebook日記から。」

「何と。茂木氏のリゲティ評価。」

茂木健一郎@kenichiromogi · 11時間
#創造性 とはなにか?

#朝日カルチャーセンター 新宿教室の講座の真ん中あたりに差し挟む「ストレートトーク」の部分です。今回、初めて音声だけでなく直接撮影してみました!

#朝カル新宿
https://youtube.com/watch?v=NFve5-7fo7Q
https://twitter.com/kenichiromogi/status/1494826900899852290

「私は偶然、この1ヶ月特に、リゲティの「ムジカ・リチェルカータ」しか聴いていなかった。私は音楽には(最近特に、厳密にいえば再度)禁欲的。もちろん様々聴いてきたが。」

Ligeti - Musica Ricercata
https://www.youtube.com/watch?v=NkKV0Ze1Z6M

「昨年末、サブカル好き(=中島らも)、テクノ好き(=石野卓球)の義弟が46歳で重度のアルコール中毒で亡くなった、その過程に10年来の鬱病(と鬱病薬)との共存。その切断面後の、私の方向性というべきか。」

「この解説動画も、お時間あるときに是非、触りだけでも聴いてみてください。現在対談で話している、「理系」の話とも繋がる。リゲティ初期(特に私は、1曲目と2曲目を中心に聴いている。)」

リゲティ入門(ムジカ・リチェルカータ解説)Ligeti: Musica Ricercata
https://www.youtube.com/watch?v=QYSPyasO_oU

O「加藤さん、こんばんわ! 面白いですね。リゲティで茂木氏と加藤さんがつながるとは。キューブリックで使われているのは「アトモスフェール」でしたよね。アトモスフェールが一番「理系」的というのが個人的な評価でしたが、いまムジカ・リチェルカータも一聴してみて、リゲティらしい。むしろ、アトモスフェールが特異。」

K「特に、上記1曲目のインパクトはすごくて。2音(ラとレ)しか使っていない。」

O「とても、いいですよね。」

K「しかし、構造があるので。楽典的な根拠があると。そこは、私は美術で最も影響を受けたいところですね。今。」

O「リゲティは、じつにちょうどいい位置にいる。」

K「「ミニマル」っていう歴史についても、考えさせられる。」

O「リゲティの評価については、じつは分断があるのですよね。あまり評価しない勢力もある。」

K「そうなんですか。」

O「ええ。20世紀の巨匠、というとリゲティを入れない大物も。」

K「まさか。そうなんだ。」

O「ベリオ、ノーノ、シュトックハウゼン、ブーレーズは「決定」しているのですけど。リゲティは、けっこう異端みたい。20世紀後半、といってもよいでしょうが。」

K「私は、リゲティが最重要だな。「切断」している、「正統」的に。」

O「私もリゲティは絶対入りますね。むしろブーレーズとか、あんまりピンとこない。古い。クセナキスも、古いと感じます。」

K「だから、当然ですが、曲だけではなく、この(リゲティの)個々の「演奏」についても、非常に重要になる。」

O「そうですね。「演奏」が重要です。結局は、解釈者の解釈で、評価も定まる。リゲティ弾き、に大物といえる人がまだ育ってないのが問題。」

K「クセナキス、私が20代の学生時に環境(藝大絵画科油画専攻)にあった主な情報、例えばヨーゼフ・ボイスにも、より近いものとして私は受容したが、リゲティは異質。むしろ今日的な感じ。主観ですが。」

O「シュトックハウゼンには、熱狂的な支持者がいる。ポリーニとか。」

K「あー、そうなんですね。」

O「そこらへんの「政治力学」があるのですね。音楽界。加藤さんの直感は、若くて弾力があるなと思った。より今日的です。」

「アメリカ的?ともいえるかな。」

K「例えば高橋悠治のクセナキス演奏を聴いても、今(理解はできるが)ずきっと感じるものはない。」

O「「ヘルマ」ですね。」

K「そうですね。以前ロバート・モリスと、リゲティのエチュードをオマル マンさんが重ねて言っていた。>アメリカ的」

O「なにか、つながっている。なお、リゲティのエチュードは、20世紀最大の傑作と。私は思っています。」

K「ヘルマ、学生の頃楽譜を買って、見ていたですよ。ピアノで音をたどってみたりも。拍子の次から次への移行が凄いが。」

O「ヘルマを読める! すばらしい。」

K「何分の何拍子という、およそとれない拍子の連続。」

O「あれが、戦後の展開ですよね。リゲティは、ちょっとその「過剰」を補正しているというか。」

K「読めるという次元でもないですが(出だしだけ)。でも、高校の時バンドをやるという時ドラムを選択していたので、拍子の移行に興味があった。」

O「そうなのですね!それも、加藤さんならではの感性。」

K「そうですね。ドラムなんですよね、なぜか。」

O「REMを聴かせたときも、ドラムに反応していた。」

K「そうそう。何聴いても、ドラムから中心に聴いてしまう。ベビーメタルでも。パンテラでも。まあ、こじつければ、一番身体的っていうか。」

O「ジョイディビジョンも、あの障害児みたいなドラムがいいんです(!?)」

K「ジョイ・ディビジョンも良いですね。ベース、ドラム的な要素は重要(という見方)。」

O「リゲティの突出している感性も、そこですよね。異様なほど現代的な。」

K「そこで初めて、イアン・カーティスのローボイスも生きる。」

O「あのボイスリズエーションと、ストイックなドラムとベースは、ほんと天才的です。」

K「そう。(リゲティ)現代的。「現代音楽」よりも。」

O「映画を見たことがあるのですが、ぜんぜんドラムを弾いたことがなかったらしい。プロディーサーが「いいからやれ」といって、ビルの屋上で4ビートだけをずっと練習させていた。ポコポコ...って(笑)」

「リゲティがほかの大家をさしおいて、そこへダイレクトに行けてしまった、という謎があります。」

K「それで、いいんじゃないですか。>屋上で。(私の妻も、今自宅でムジカ・リチェルカータの一番を練習している。手が大きいから、とどく(ラからラ)。)」

O「一方で、リゲティとシュトックハウゼンを比べると、「古典」が息づいていると感じさせるのは、リゲティ。」

K「一番も、結構難しいですよ。音の指定が、結構複雑だから。強弱だけではなく、タッチの仕方も。ポンッと鳴らすのと、ポンと鳴らして少し間をおき気味に指を離すとか。そういう差異が、細かい。」

O「それはやはり伝統の態度ですよね。」

K「そうなんですよ。そこで、ロバート・モリスもかぶってくる。「古典」要素の有無で。」

O「高橋悠治は、「ヘルマ」は楽譜を読みながらは弾けないって言っていて。それは伝統とは違う。」

K「モリスは現代的。」

O「芯がしっかりあるんですよね。最も、現代的でありながら。」

K「そうですね。高橋はヘルマは弾けないから、どうやってやったのかというと、種明かしで、シンプルに超ゆっくり楽譜の通りにたどって、体に丸暗記させて、という。それしかなかったと。でもそれって、機械。」

O「シュトックハウゼンの「ピアノ曲x」も似たようなものでしょうね。」

K「そうかもしれませんね。何か冷たいんですよね。」

O「あれも楽譜を味わって弾く、という伝統からは外れる。冷たいんですよ。」

K「体に「丸暗記」で、あとはそれを徐々に高速化させて弾くだけって。」

O「リゲティは超絶に美しいし、温もりもある。けっして手放さない伝統の部分が濃厚にあると伝わる。」

K「温もりがあるんですよね。それだ! 不気味に一見聴こえるが。」

O「「ファニー」。リゲティの。ユーモアとか。」

K「そうですね。」

O「その点がモリスとも通じるというか。」

K「モリスも、どこかチャーミングさがある。」

O「そうなんですよね! 神経症的なものが皆無で。」

K「近代を超えている。エディプス的なものを。キリスト教的なものも超えて、(あえてヴォリンガー的と言えば)「ゴシック 」=「ギリシア」的。」

O「晩節も汚さなかった点でも共通しているかも(笑)。この二人は。シュトックハウゼンなんかは晩年に馬脚を曝して(笑)。胎内回帰願望まるだしな。」

O「伝統を重んじたことと、現代的なことを追っかけたという点では、グールドとリゲティは共通している。ただ、大きく違う点もある。グールドの演奏は一貫してハイテンポ。しかも異様にトーンがそろっていて、独特の音響空間をもっている。
グールドとリゲティの芯の部分の違いについては何だろうと。両者の姿勢は似ているが、リゲティの方が、何かもっと重いものがあるのですよね。」

K「そうですね。グールドは軽くなろうとしたが、リゲティは軽くなろうとはしていませんね。」

「環境がそれぞれ違うのはまあそうだが、リゲティは環境の圧力から耐える方向は強く感じますね。グールドの身体性は撤退の方向が強い。薬も好きだった。」

「リゲティ、カフカを読んでいたようです。」

https://en.wikipedia.org/wiki/György_Ligeti
Apart from his far-reaching interest in different styles of music, from Renaissance to African music, Ligeti was also interested in literature (including the writers Lewis Carroll, Jorge Luis Borges, and Franz Kafka), painting, architecture, science, and mathematics. He was especially fascinated by the fractal geometry of Benoit Mandelbrot and the writings of Douglas Hofstadter.[20]

O「グールドの身体性は撤退の方向、というのは至言ですね。例外的にハイテンポではない種類の演奏としてシューンベルクとブラームスが挙げられますが、グールド自身は「トロットロのロマン派」といっていたが、私にはロマン派の偽装(=軽さ)という感じがする。録音時代の申し子だったのでいくらでも偽装できたのでしょうが。だから、中年期以降は、ライブを一切全然しなかった。」

「グールドのCDは何枚も持ってたのですが、いずれも、どこか演技がかっていて、ずっとは聴かないです。けっきょく、モーツァルトが一番いい、という。名ピアニストにある「透徹した態度」が見られない。グールドには。彼の面目は「撤退」なんで、モーツァルトが似合う。」

K「モーツァルトが一番いいっていうのは、面白いですね。」

「何か、いろいろやっていても、一貫性の無さ、「透徹した態度」の無さというのは、確かに私も感じます。それを「多様性」というのか?という。確かに「偽装」という語も、ここではしっくりしてくる。「多様性」の「偽装」。」

「演技ががっているといえば、手のモーションもすごいですね。演奏、運指の合間の。ショスタコーヴィチとかの。ヒトラーをも私は連想してしまう。」

O「あのグールド節を「瞑想性」とか言うのか?と。浅田彰とかが絶賛する。ちょっと違いますよね。1音1音が巨大だし。アピールがすごい。(そこは認めざるを得ない)」

K「そうですね。演技がかったモーションは、浅田彰にも見られる。」

O「異例なほど、ボーンっ!って響く音がする。」

K「1音1音が、はっきりと他と区別されている。意識的に。」

O「あれが「くさいくさい!」と。プロは見抜いている。大衆は熱狂するが。」

K「私も、あそこが「くさい」と(笑)。」

O「芸能時代、上原ひろみの先生(いまはヤマハの偉い人)にレッスンを受けたことがあるのですが、当時グールドに熱を入れ上げてたんですよ。それで「グールドのあのxxって盤、サイコーですよね?」って話しかけたら、汚物を見るような目で睨まれた。今ならその理由はわかる..」

K「ははは。あれ、オマル マンさんピアノも弾くんですか?」

O「いや、私は(なんと!)歌のレッスンを教わって。1回キリでした(笑い。「この子、ないな...」」

K「あ、なるほど、マストでしたね(芸能事務所時代)。」

「神秘化(メッキ)の除去。「路上」化。これまで対談で話してきたこと、グールドにも繋がる。」

O「個の力がプリミティブな形で表面化する。⇒ネット。従来のメディアの作用とは、あきらかに異なる。これからは加藤さんの時代か。」

K「個々の「虚弱さ」具合が露呈する。否応なく。ちょっとした、的を射たコメント一つで。」

O「だから、ネットでは(さまざまな偽装を突破して)健康な人が突出するのだと思う。」

K「グールドも、今日では、そこに連れ出されてしまった。」

O「インフルエンサー=偽装の名人。グールド(元祖インフルエンサー)。」

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