新自由化されたアートに反対する

一方にロマン的芸術家像というのがあり、他方で新自由主義的芸術家像、この二者択一の議論だった訳です、これまで。前者は、経済的には資産家に囲われる、つまり資産家に自身を含めて「おもちゃ」を提供するという形であり、それは性的・身体的な意味を含まずとも、「作品」をそれとして供するという形態です。現代においては、典型的にはロバート・メープルソープがそれにあたる。資産家と芸術家の疑似恋愛的な形状が往々にしてここにはある。私の経験の範囲で言えば、Gallery HAM所属時が前者にあたるが、所詮は真似事になる。オーナーの神野公男氏は、古本で美術手帳を大量に買い込んで読んだだけの美術の所謂ど素人であり、美術家・彦坂尚嘉さん曰く「原始絵画」の草間彌生やゲルハルト・リヒターしか分からず、芸術の広範な教養が入っていなかった。しかし、近年それに高い値がついたので、商人としては(期間限定で)目が効き優れていたとも言える。
後者の代表は、ジェフ・クーンズ。日本においては、『芸術企業論』の村上隆氏ということにもなるが、その作品が「壁紙」や「模様」の形態では、それに対応するとはやはり言えない。この場合も、日本の「オタク」が現代の東洋の神秘として欧米で(一定期間)面白がられたので、それを商材として選択した商人としては目が効き優れていたとは言える。

これらに見られるように、日本人にはどちらにしても圧倒的に不利なのである(しかし日本の歴史を遡って深く見ると、そうではない。日本は芸術的に非常に優れている。現代日本人がそれを見ないだけだ)。

今、新自由主義も終わりを迎えていると言われている。

The age of neoliberalism is ending in America. What will replace it? | Gary Gerstle https://www.theguardian.com/commentisfree/2021/jun/28/age-of-neoliberalism-biden-trump

「新自由主義」の過去の議論については、以下が重要である。

ミシェル・フーコー、コレージュ・ド・フランス講義(1978-1979年度)『生政治の誕生』
https://www.chikumashobo.co.jp/special/foucault/

1979年2月7日
p143
「国家によって規定され、いわば国家による監視のもとで維持された市場の自由を受け入れる代わりに------経済的自由の空間を打ち立てよう、そしてそうした空間を国家によって限定させ監視させよう、というのが、自由主義の最初の定式でした------オルド自由主義者たちが主張するのは、この定式を完全に反転し、市場の自由を、国家をその存在の始まりからその介入の最後の形態に至るまで組織化し規則づけるための原理として手に入れなければならない、ということです。つまり、国家の監視下にある市場よりもむしろ、市場の監視下にある国家を、というわけです。
私が思うに、ナチズムに関する分析から出発して初めて可能となったこの種の反転から出発して、オルド自由主義者たちは実際に、1948年、彼らに対して提示された問題を解決しようと試みることができたのでした。その問題とはすなわち、存在しない一つの国家、正当化しなければならない一つの国家、それに対して最も猜疑心を抱く人々にとっても受け入れられうるものとすべき一つの国家をめぐる問題です。彼らは言います。市場の自由を手に入れよう。そうすれば、一つのメカニズムが、国家を基礎づけると同時に、国家を管理しつつ、その国家に対し何らかの理由によって猜疑心を抱くすべての人々にとっての保証を与えてもくれるだろう、と。彼らによる転倒とはこのようなものであったように、私には思われます。」

p.148
「競争、それは一つの本質である。競争、それは一つのエイドスである。競争、それは一つの形式化の原理である。競争は一つの内的論理を持ち、自らに固有の構造を持つ。その諸効果は、そうした論理が尊重されるという条件においてのみ産出される。それはいわば、諸々の不平等のあいだの形式的作用である。それは、諸々の個人のあいだ、諸々の行動様式のあいだの作用ではないのだ、と。」

1979年2月14日
p.181
「新自由主義者たちが思い描いているような、市場に従って調整される社会、それは、商品の交換よりもむしろ競争のメカニズムが調整原理を構成しなければならないような社会です。そうした競争のメカニズムが、社会において可能な限りの広がりと厚みとを手に入れ、さらには可能な限りの容積を占めなければなりません。すなわち、獲得が目指されるのは、商品効果に従属した社会ではなく、競争のダイナミズムに従属した社会であるということです。スーパーマーケット社会ではなく、企業社会であるということ。再構成されようとしているホモ・エコノミクス、それは、交換する人間ではなく、消費する人間でもありません。それは、企業と生産の人間です。」

1979年3月7日
p.247
ところで、その諸効果が経済的観点からは全面的にニュートラル化されるような社会政策という、この考えは、新自由主義モデルがフランスに設置された当初、すなわち1972年に、当時財務相であったジスカール・デスダンによってすでに非常にはっきりと定式化されていたものです。

1979年3月21日
p.298
ところで、こうした「企業」形式の一般化にはいったいどのような機能があるのでしょうか。一方において、問題はもちろん、経済モデル、つまり需要と供給のモデル、資本とコストと利益から成るモデルを波及させて、それを社会関係のモデル、生存そのもののモデルとすること、それを個人の自分自身や時間や周囲の人々や未来やグループや家族に対する関係の形式とすることです。したがってまず、経済モデルを波及させること、そして他方、企業を普遍的に一般化された社会モデルとしようというオルド自由主義者たちのこのような考えは、その分析ないしそのプログラムのなかで、道徳的で文化的な一連の価値の再構成として彼らが指し示すものの支えとして役立ちます。それら一連の価値は、「熱い」価値と呼びうるようなものであり、「冷たい」競争メカニズムの正反対のものとして自らを提示します。というのも、企業というこの図式とともになすべきこと、それは、個人が、その労働環境、その生の時間、その夫婦生活、その家族、その自然環境との関係において、オルド自由主義者たちの時代に流行っていた古典的な語彙を使用するなら、もはや疎外されないようにすることであるからです。問題は、個人の周囲に、リュストウが生の政策と呼んでいたものを形成する具体的な定着点を再構成することです。企業への回帰、これは、一方では、社会領野全体を経済化し、社会領野全体を経済へと方向転換させようとする、一つの経済政策ないし経済化政策です。しかし同時にそれは、他方において、生の政策として自らを提示する政策であり、厳密な意味において経済的な競争ゲームにおける冷たいもの、無情なもの、打算的なもの、合理的なもの、機械的なものを埋め合わせようとするものでもあるのです。

p.304
古典的自由主義においては、統治に対し、市場の形式を尊重して自由放任することが要求されていました。それに対してここでは、統治活動一つひとつの測定と評価を可能にする市場の法則の名のもとに、自由放任が、統治の非自由放任へと反転させられています。自由放任はこのように反転し、そして市場は、もはや統治の自己制限の原理ではなく、統治に対抗するための原理です。それは、統治を前にした絶え間のない経済的法廷のようなものなのです。十九世紀が、統治行動のいきすぎを前にしてそれに対抗するために一種の行政的裁判機関を打ち立てようとしていたのに対し、ここには、厳密に経済と市場の観点から統治の行動を評価すると主張する経済的法廷があるということです。

すべての人間=企業であるという、新自由主義者が初期に思い描いた理想像、「企業と生産の人間」(フーコー)とは、現代においてはその達成はさしずめ滑稽な形だがYoutuberである。くだらない悪戯(所謂「ドッキリ」)を子供が夜中に思いついて、翌日早速実行(=生産)する。高い広告料が付き、それで子供が家を建てるという図。

並行し(あるいは先駆けて)、アートも同様。

私は「新自由化されたアートに反対する」と、過去に何度も書いてきている。

https://www.facebook.com/go.kato.71/posts/1915129785286608

日本の美術関係者が、美術家・ギャラリスト・美術館学芸員・美術館館長・美術評論家含め、美術が分からず完全に所謂ど素人化している現在の状態については、美術家・彦坂尚嘉さんの以下の実証研究を参考にしてください。私もこの彦坂さんの実験結果は、よく納得ができるものです。特に東京芸大出身者(例えば会田誠)が、2例の左を選んだという彦坂さんのブログでの報告には。

東京ヤーコブ・ローゼンバーグ派
https://jakob.exblog.jp/155450/

この2枚のドローイングは、右側がレオナルド・ダ・ヴィンチである。左側が、同じ工房で働いていた無名のアーティストのもので、両方とも、工房での訓練で描かれたものである。
この作品のどちらが良いものであるのかというクイズを、アーティスト名を隠して行うと、ほとんどの人が無名アーティストの左のドローイングが良いという。
レオナルド・ダ・ヴィンチの方を良いという人が、ほとんどいないのである。
この実験は、実は20年ほどやってきているのだが、美術評論家であろうと、画廊主であろうと、作家であろうと、間違えるのである。
 
人類史の中でレオナルド・ダ・ヴィンチというのは、傑出したアーティストであると思うのだが、そのデッサンを良いと選べない私たち日本人の《眼》というのは、良い眼と言えるのであろうか?
あるいは、伝統の違う西洋絵画の神髄を、日本人は理解できないと考えるべきなのであろうか?  (彦坂尚嘉)

ちなみに、ヤーコブ・ローゼンバーグ『美術の見方──傑作の条件』は、私も一度図書館で借りて読んでいます。普通の意味で優れていますね。

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