誰でもゴッホ

オマル マン氏との対談、第28回目。

K「オマル マンさん、こんにちは。対談でここのところ出ているワードとして、「健康」ってありますが、健康って、実は過激なテーマなんだなと。オマル マンさんが提示したインフルエンサー=「症状」という式が端的にそれを表している。しかし、これは今日の(ハイデガー的でもある)時局性をもった現実だと。前回、グレン・グールドの話もしたが、遡るとファン・ゴッホの問題にも行き着く。特に日本において、ゴッホはなぜこんなに人気があるのか?という従前から人口に膾炙する「謎」がある。」

「オマル マンさん曰く「芸術の不可能性の偽装」、これはゴッホにも当て嵌まる。」

「晩年の発症した後のゴッホ作品は痛々しい。しかしそれ以上に、発症前の「人気者になりたかった」ゴッホ。人に気に入られたい、カラフルな色彩。人への接近。」

O「加藤さんこんにちは! ゴッホは何点も見ているのです。ひと昔前ですが「オルセー美術館展」というのが、新国立美術館でやっていて。後期のゴッホが来ていた。ゴッホ、ほかの作品と比べて、ひときわ異彩を放ってました。ほかの観衆の人気も断トツでしたね。個人的にはセザンヌのりんごの静物画、あれは感動しました。筆致のうごきが神のごとく。」

「マネ、セザンヌ、シスレー...シスレーもよかったなあ。とにかく写真じゃわからないのですよね。...とその話は置いといて、ゴッホですね!」

「一言でいうと「誰でも真似ができる作品じゃ?」(ゴッホ)」

「セザンヌの肖像画って、ほんっと凄い。ぜったい真似できない。あれは贋作不可能。セザンヌの、ムスっとしたおばさんが、座っている肖像画があって、目に焼き付いている。身体が痺れて、固まった。ゴッホは「あ~(笑)」って感じで素通り。こういう話ってネットの画像では伝わらないですよね。。.」

K「(画像を探していました。上記文脈)このような時期です。」

Portrait of Camille Roulin, 1888 #vincentvangogh #postimpressionism
https://twitter.com/vangoghartist/status/1488908909012205568

「オランダ時代は、人との隔絶感がある。」

「その間の時期。ゴッホに「健康」を私が見るのは。1887年頃か。」

「その時に、私が画面に向かうゴッホの背後に立って、ガーンと肩を叩いて「それで押し通していけ」と、言えたならと、治療になったとつい思ってしまう。どこでもドアでもあれば。87年ごろって言ったって、良い作品は、おそらく飛び飛びで、不安定であるとは思うが、ちょうどいい瞬間に、間髪を入れぬようなタイミングで。」

O「今、PC越しに、はじめて見ているのですが、良い感じですね!」

K「いや、これ、カラフル、人に接近したの(無理して)、これをポップというのか?と。人気があるが。私が言う「正統」なポップとは、マイク・ケリーの初期モノクロ・ドローイング。ケリー本人が言う通り、自身の「環境」としてのポップカルチャーを、素材として対象化している。」

O「個人的に、ゴッホのイメージの画風って後期なんですけど、それに比べてパァーって輝いている。上記の作品。」

K「そうですね。麦畑とか。」

O「後期、「カオス」な雰囲気が漂っています。」

K「それの少し以前の、大地や建物がうねっているやつですね。良くない。」

O「それに比べて、整然としている印象。」

K「そうですね。一見、良さそうだが、私が見るに、これが「兆候」です。嘘くさい。」

O「そうなのですね。黄色と、(異なる)黄色とのコントラストを使っている。嘘くさいって、そこですか? 印象派って色彩の「対比(黄色だったら紫系)」が基本ですが、ゴッホはあえて外している。」

K「オランダ時代の後の、デッサンとかも健康。」

Head of a Young Man, Bareheaded, 1885 #vangogh #postimpressionism
https://twitter.com/vangoghartist/status/1489451610476630019

「一番良いのは、この辺りですね。」

Still Life with Grapes, Pears and Lemons, 1887 #postimpressionism #vangogh
https://twitter.com/vangoghartist/status/1495148326475419653

O「加藤さんのいわんとするところが分かってきた...」

「今、一連の作品を眺めてて、やっぱり1887のがうまくいってますね。個性を保持しつつ。前段で直感的に「色彩の対比」の話をしてましたが、その点についても。」

「ポップって何のことかな?って思ったんですけど、ちょっと色彩の対比関係があやふやになっている。⇒1888」

「素描に関しては、一貫して上手いと思ってますけど。ゴッホさん。オランダ人っぽい。」

K「デッサンも良いんですよ。」

Sketch of a Right Arm and Shoulder, 1886 #vangogh #vincentvangogh
https://twitter.com/vangoghartist/status/1494413153274376196
Sketch of a Knee, 1886 #vangogh #vincentvangogh
https://twitter.com/vangoghartist/status/1491375912105005058

O「裸の裸婦がふさぎ込んでる作品とか。デッサンだけの方が好きなのかも。」

K

Head of a Woman, 1886 #postimpressionism #vangogh
https://twitter.com/vangoghartist/status/1489734088470708229

「健康。人との距離が程よい。」

O「素描だけでいいですよね。」

「大衆に大人気なのは、真っ黒と紫のウネウネした街路とか、真赤っかの部屋とか。」

K「そうなんですよ。人に愛されようと、色をどんどん使っていくうちに、病んでいった。」

「そうですね。「人の不幸は蜜の味」形式(その前兆も蜜の味)。」

O「代表作は「種まく人」ですよね。あれも1888なのか...(今検索した。)」

K「1888年は、もうやばい。(自画像を見ると、グールド的な「偽装」=「きりっ」みたいになっているので。)」

Self Portrait, 1888 #postimpressionism #vincentvangogh
https://twitter.com/vangoghartist/status/1490612932199305217

O「ビカーって!。あれが健康と病の過渡期だったんですね。」

K「そうですね。「行けるかも?」と本人が思ったところが。」

O「上部が全部黄色で、下部が黄色と紫。highです。バランスが崩れている。」

K「道を誤ったと思う。有能な画商がいたら。」

O「画商の力ですね。ゴーギャンしかいなかった。近くに。」

K「それが、不運でしたね。最大の。でも仕方がない。」

「色も、もう少し押さえたところで、持続していけば。この辺。深みがある。(必ずしも、彩度を低くという意味ではなくて。=くすんだ絵を描けという意味ではもちろんない。むしろ「ぼんやり」するなと。)」

Vase with Zinnias and Geraniums, 1886  #postimpressionism #vincentvangogh
https://twitter.com/vangoghartist/status/1484874972057251843

O「これは若かった頃の作品ですか?」

K「これ、多分86、7年ごろだと思います。」

O「86、7。ほんと短い全盛期...」

K「オランダ時期は、ただただ暗い。」

O「上の86頃の作品、老画家のような渋みがある。」

「ゴッホっぽくない。異彩。」

K「狭間の時期。そこはあまり見られていない。その後の、狂気に向かって助走が始まっているところから、人々は注目する。」

「(読んではいないが)アルトーの「社会に殺されたファン・ゴッホ」という文脈。」

O「本当は、ここからどんどん、歳を重ねて、成熟していって、色を使わなくなっていった方がよかった。」

K「人々は「生贄」に興奮する。」

「そうですね。逆に、勝ち誇って、マイク・ケリー初期の方向へ。ゴッホの笑顔が見られる。」

O「色をつかっていった「狂気」の方向性になると、過剰になって、逆に個が失われた。」

K「そうですね。「個」がなくなって、集団へ向かっていった。」

O「「誰でも真似ができる作品じゃ?」に。」

K「まさに、そうですね。怖ろしいことだ。」

「現代人は、アートに現場で関わる人は、反面教師にゴッホをなぜしないのか?と。ゴッホの「健康」部分を見ずに。祭り上げて。入場者数をとって。」

O「さきほどの加藤さんがおっしゃった画商の問題もあるのかもしれません。」

K「弟ですね。実際には。」

O「まともな人がいなかったから。まわりに。弟とゴーギャンって。。。」

K「「家族」の問題。」

O「やっぱり、結局はそこに行きますよね。」

K「家族の問題が真剣に考えられていない。」

O「そう。」

K「兄弟といえども、他人。」

O「スタートラインで特大のトラップが。」

K「同じ空間、体験を共有していても。話し合っていない。社会に対する戦略を持っていない。」

O「基本的に手紙のやりとりだったのですよね。ずっと。弟のテオでしたっけ? ドジな兄貴をあやす甲斐性のある弟。泣ける感じで。」

K「私はあまり積極的に読まなかったが、ゴッホから「今こういう感じ」というのを、メモとか簡単なスケッチとかで伝えていた。」

O「普通の形式での「家族」とはいえないですよね。」

K「あまり読む気にならない。結果が伝えていますからね、結局。悲劇の結末が。」

O「複雑な家庭だった雰囲気は伝わってくる。⇒ゴッホのテオの家」

K「「私悲劇、だいっ好き」というのは、(日本的)大衆の言表だと思う。」

O「文化人仕草。」

「ゴッホも(文化人仕草的な)物語とセットになりすぎていて、まともには見られない。下手をすると最晩年が最高とか言われてる。麦畑とカラスが舞っている作品。「文学」。文学イデオロギーなのかも。ゴッホが巻き込まれているものとは。」

K「私はアムステルダムのゴッホ美術館でたくさん見た。その時は、私もゴッホの最晩年ばかりに気を取られていた(90年代初頭)。」

O「異常絵画ですからね。」

K「「健康」の部分を、せっかく見るべきだったのに、「病」の部分にばかり気を取られていた。」

O「今はやっている、発達障害、もいわゆる「文学イデオロギー」でしょうね。」

K「麦畑の横長のシリーズで、最後の1枚か2枚。緑色の畑と青い空だけ。雲が流れている。「もうこれ以上行く場所がない」というような。(「空間」の消去。)」

Wheatfields under Thunderclouds, 1890 #vincentvangogh #postimpressionism
https://twitter.com/vangoghartist/status/1483598789705404418

O「明治の「結核」と同じもの。「もうこれ以上行く場所がない」...文学ですよね。ゴッホは、「病」ではあるが、誠実な印象。だから大衆の心を掴む。」

K「そうですね。三島の「天人五衰」の最後の庭のシーンは、そのダメ押し。」

O「そういえば、鴨居玲ってのも、いますねぇ。」

K「鴨居玲、私はほとんど見ていない。一瞥で。」

O「マズイんでしょうが、あれも誠実さは伝わりますけど。嫌な話ですね。」

K「でも、何かを表してはいるんでしょうね。」

O「東京メトロの構内を歩いてると、2~3年に一度は、鴨居玲展のポスターを見かける。人気あるんですよ。」

K「濃縮して。」

O「そうそう、濃縮している。」

K「うーん。「業界」(?)。」

O「かなあ? 酷い絵だと思いますが、思い詰めていて、「物語」の素材としては、」

K「流石に、私はスルーしてきた。直感で。」

O「使えると言うか。だから、業界なんでしょうね。」

K「ああ、そういうことか。」

O

https://static.chunichi.co.jp/image/article/size1/9/7/d/3/97d3a3148ac9a9409d43ecfe4cf034aa_3.jpg

「こういう絵もだまし絵みたいな感じですけど、誠実さは伝わってくる。或る意味、嘘はない。」

K「なるほど、なんかこれも文学ですね。」

O「ですよね!」

「ゴッホも、やはり同じレイヤーの力が作動している。」

K「「文学からとりあえず離れよう!!」(笑)。」

O「加藤さんの力強い提言。」

K「「健康になりましょう」より良いような。」

O「茂木健一郎へ、文学からとりあえず離れよう!」

K「「健康」はスローガンでは、中々なんともならないから。蓄積が重要だし、まさに「身体性」の。その発火するタイミングと。」

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