共産主義と国家社会主義の二項対立

日本の現代アート業界には言論の自由がないと皆が言うのは、アメリカの民主党と共和党のような対立図式をモデルに考えることは一概にできない。むしろ、政治が共産主義か国家社会主義かの二択になっており、「自由主義」が介在しないことが、そのベースになっていると考えられる。息苦しさの元。
 

 
参照。
 

レックス・フリードマン「Twitterはアメリカの政治と選挙に貢献してきたのだ。2024年の米国選挙でXはどのような役割を果たすと思いますか?」

イーロン・マスク「私たちの目標は、可能な限り平等かつ公平であることです。過去にはツイッターは、客観的に極左活動家によってコントロールされていたため、そうではなかった。彼らは自分自身をそのように表現するでしょう。」

「言論の自由は、自分の嫌いな人が自分の嫌いなことを言うことが許される場合にのみ意味を持ちます。なぜなら、そうでない場合は言論の自由がなく、検閲を受けるのは時間の問題だからです。」
(1:42:00~)

Elon Musk: War, AI, Aliens, Politics, Physics, Video Games, and Humanity | Lex Fridman Podcast
https://www.youtube.com/watch?v=JN3KPFbWCy8&t=5436s

 

[追記1]
 

現代において「自由主義」を思考するには、フリードリヒ・ハイエクが最も良いと私には思われる。ハイエクが述べるように社会主義への欲望とは、原始的なものだと言ってよい。現代にも息づく。とりわけ「私有」の否定。美術においては、会田誠に見られるような「みんな一緒」という原始的な願望回帰。

ハイエク「私有(個別的所有)を否定する所にあらゆる文明はない。」

ハイエクが私有の例で持ち出すのは、エクスキャリバーという剣。剣=道具の所有(私有)というものが、原始社会では否定されると。つまり、その人しか使えない道具(またその継承)というものの存在の否定。これが現代の自由主義の否定に繋がる。
 

エクスカリバー、レプリカ (London Film Museum)
https://ja.wikipedia.org/wiki/エクスカリバー#/media/ファイル:London_Film_Museum_(5094934492).jpg

 
日本の美術界には、「その人にしかできない」ということへの根源的否定がある。つまり「文明」の否定の衝動。即ち社会主義への衝動。

 

[追記2]
 

「誰でもできる音楽」という主張をポップミュージックでしたのは、私の記憶にある中では細野晴臣。YMOをそう規定していた。70年代ですね。同時期のパンクや「DIY精神」などとも共通する。90年代以後は、例えばICC等の「開かれた」という。今の私から見ると、随分しみったれたものだなと。

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