芋虫から蝶へ

オマル マン氏との対談、第49回目。

K「オマル マンさん、こんばんは。今回も美術の話題で。本日思ったこと。語感による結びつき。例えば、「セザンヌ」と「軍事」は、結びつきがとても良いことに気づく(セザンヌ自身は徴兵忌避をしている事実とは関係なく)。日本で人気がある「ゴッホ」と「軍事」だと、全く結びつかない。意味をなさない。戦後の日本美術、例えば「山下菊二」と「軍事」も全く結びつかない。後者は、いわば「丸腰」の美術の系統と呼べる。おそらく、今日に至るまで。参考。」

MEP OSINT@MEPOSINT·2時間 Odessa, Ukraine. (23/04/20222). Kalibr missile in during cruise. https://twitter.com/MEPOSINT/status/1517871806434398208

Paul Cezanne Still life with a fruit dish and apples, 1880
https://twitter.com/cezanneart/status/1517481070068969473

Paul Cezanne Still Life with Flowers and Fruit, 1890
https://twitter.com/cezanneart/status/1517495791086186496

Paul Cezanne Chestnut Trees and Farmstead of Jas de Bouffin, 1876
https://twitter.com/cezanneart/status/1517350796949659651

Vincent van Gogh Still Life Vase with Cornflowers and Poppies, 1887
https://twitter.com/vangoghartist/status/1516461000408588289

Vincent van Gogh A Pork-Butcher's Shop Seen from a Window,888
https://twitter.com/vangoghartist/status/1516735720823607304

Vincent van Gogh Cypresses and Two Women, 1890
https://twitter.com/vangoghartist/status/1517142626109050880

Kikuji Yamashita “The Tale of Akebono Village,” 1953

Kikuji Yamashita “Deification of a Soldier,” 1967

http://visualizingcultures.mit.edu/protest_art_50s_japan/anp1_essay04.html

山下菊二:おかめのmake-up (1964)
https://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=191258&edaban=1

O「加藤さんこんにちは!またあとで返信しますね!」

「上記の加藤さんの問題提起、 いつもながら(?) 正直、戸惑いがあるのですが、 一方で、加藤さんらしいな、とも。 「山下菊二」と「軍事」も全く結びつかない、この文が興味深く、眺めてしばらく考えていました。 1945年に日本は「敗戦」しました。 戦艦大和の沈没とともに。 旧態依然とした「大艦巨砲主義の時代」の画家が、 山下菊二。 対して米国は「空軍が勝敗を決す」という先見性=世界性をもっていた。 勝敗は戦う前から決まっている。」

「セザンヌについていえば、加藤さんの写真作品で繰り返し現れる「戦闘機」[1] 。CAD作品に見られる空間性と、 形状のプロポーションの感覚[2]。 これも、やはり連想した。」

[1]  https://www.instagram.com/p/COR0elnDO32/

[2]  https://www.instagram.com/p/COiT7LzjMsC/

K「オマル マンさん、すみません。相変わらず分かりにくいことを書いてしまい。そうですね。「空間性」。向こうに(対象に)とどいていくような、「臨場感」というようなことですね。言いたかったのは。CAD作品を新しいのを作っている過程で、思ったことでした。」

「あと、SNSで流れてくるウクライナの戦場の映像を見ていて。」

O「今年、あらゆる人間の予想に反し、有事が起きましたが、そのまえから、軍事に対する予感は(加藤豪作品)から在していた。「ぼんくらまでもが”軍事”を語るようになる時に、世の中は決定的に変わる」 といった節を目にしたことがある。 第一次世界大戦当時の世相を表して、軍事家がいった言葉。」

「「情報戦争」という新しい戦争。」

K「フランスのフリゲート艦の映像も、同時に私は見ていて。」

Jean-Baptiste Antoine Colbert Marquis de Seignelay@FauteuilColbert·23時間
It's the truth true.
Evidence on the frigate « Forbin » (2010)フランス.
https://twitter.com/FauteuilColbert/status/1517562017615421440

「セザンヌはこっちだな、と。「空間性」「立体性」を備えている。」

「最晩年のサントヴィクトワール山にしても、セザンヌ本人が納得していたかは別にして(セザンヌは生涯の自身の仕事を不満足なものと感じていたとも)、「平面性」への展開で語られることも多いが、むしろ「弾」が 貫通していくような空間性の志向の方が強いと。私の主観的には。」

O「おっしゃるように。 後期印象派の3巨頭の、他のゴッホとゴーギャンにはいっさい無い感覚ですね。」

K「そうですね。ゴーギャンも。例に挙げたゴッホや山下菊二には、それがないと。空気が響いていくような感覚。」

O「山下菊二は、個人的には惹かれる画家ではありますが、プロポーションは曖昧な感じがします。」

K「プロポーションも、うねうねしているだけで曖昧ですね。展開の方向として。」

O「セザンヌの形状への還元力と、構成の直観力は、すごい。同様の感覚は、浅井忠、ドラクロワにも感じるが。」

K「セザンヌが見ていたドラクロワとの、共通性かもしれませんね。そこは。」

「山下菊二に感じるのは、強い戦争恐怖症、後遺症(?)。」

「「空間」がありませんね。洞窟に閉じこもって、四方に取り巻かれた間近な壁を見ているような。」

O「檻の系譜ですね。」

K「そうですね。「反戦」のポスターのようにも感じる。」

「徴兵忌避し故郷の近くに隠れたセザンヌは、一般から見れば反則だが。山下は戦場で中国の捕虜を惨殺するのに自身が「平然」と、関わったことが、どうやら戦後、癒えないトラウマだったようだ。(5. Yamashita https://www.youtube.com/watch?v=KxmHuFbVrSo)」

O「自己でトラウマを解消できなかったと。詩人の石原吉郎みたいな感じですね。抽象へ還元できずに、もがいている。」

K「解消できなかったでしょうね。従順に日本の侵略行為に手を貸す自己しかいなかった。その具体性が、へばりついていたと思われる。」

O「山下の 「うねうね」「病的」 が、 日本美術に特有な(肯定的に評されがちな)「抒情性」「憧憬」という要素と絡み合って。「この人、死ぬかもな」という危うさはつねに漂っている。」

K「代表作「あけぼの村」の作品は、そういう方向ですね。叙情性。妻が語る上記、動画では、戦中の自己の体験を世間に公表してから、作品の方向が定まり形になったという語り方だが。」

「「生存」の危うさですね、伝わってくるのは、戦後の山下から。」

O「生存の危うさ、という語感は的確と思います。「生きて帰ってからが本当の地獄だった」と石原吉郎は言い残している。「本当の危機」だったかな。」

K「なるほど。リアルですね。私が直接話した水田洋氏[3]には、そういうトラウマの痕跡は私からは感じられませんでした(経歴。1942年東亜研究所入所。戦中は大日本帝国陸軍軍属として帝国陸軍南方軍第16軍(ジャワ軍政監部)調査室で、農村事情の調査を行う)。何か、一歩引いた語り方だったと思います。自己の戦争体験に関して。何気なく、見た断片的シーンを、情報量を少なく語る、という私の印象。」

[3] 日本の経済学者、社会思想史学者、市民運動家。

O「シンプルに、「死線」体験の有無ではないですかね。」

K「そうですね。」

O「何か、一歩引いた語り方、というのは大岡昇平のインテリ戦争小説にも感じる。石原とは、何か、全然違う。」

「概念的な「借り物」に感じられる。山下が、他のシュレアリズムの画家と一線を画すという評され方をするのも、その点にあるのかもしれない。」

K「山下の、戦後のイデオロギーとのフィット感。靉光は、戦後を生きられなかったが、1930年代の作品は、「空間性」がある。1945年の敗戦を挟んで、両者は全く別物だと思います。」

O「山下と比べて、靉光の方がずっと優れていると思います。」

K「単純言って、そうですね。」

O「あんまり言葉にしても仕方がない気がする。別の次元。過剰性が鼻につくのですよね。山下は。」

K「別次元。しかし、テイトモダンに飾られているのは、山下の方。(https://twitter.com/ishitakuma/status/1041000362692550656)」

O「こっちが好かれるのは、分かりますよね。」

K「そうですね。戦争後遺症を、ある意味安心して見れる。」

O「もうちょっといい作品があるから、そっちを飾ってあげて、、、という気も、山下が可哀想(笑)。」

K「それもありますよね。」

O「端的に、本人もうかばれない。」

 K「この一連の系統の作品が、人気がある。狭い空間に閉じ込められたような。(https://tabouowner.exblog.jp/28705293/)」

O「これ、トーンを明るくしたら、瑛九みたいな。基本は、シュールレアリスムの方向があるんですね。」

K「アンドレ・マッソンとか、そういうのと違いますね。」

O「そうですね。」

K「方向が正反対。美術批評家・矢田滋氏のTwitterに掲示されている、マッソン。(https://twitter.com/so2memo/header_photo)」

O「山下もそうですが、日本美術界は、総出で、ぜんぜんマッソンとは違う方向へ。戦中~戦後にかけて。」

K「総出で、って感じですね。」

O「一瞬、加山又造を思い浮かべたが。あれもなあ。」

 K「「業界」臭は、ここから。」

O「そうですね。業界臭。」

K「狭い空間に閉じ込められた人間表象は、初期の河原温の具象画にも。」

「業界臭って、芸術なのか?と。」

 O「河原温、荒川修作、みんな狭くて死にそうな感じがする。業界臭=アート。」

K「そこだけが、西欧に「頭なでなで」枠に嵌るので、という構図。」

「業界臭=アート。湿気臭いんですよね、直裁に言えば。「ムレている」。」

O「鎖国的な美術。河原温も、NYにいたのに、その実態は鎖国みたいな。ずっと日付をペイントしていたという。」

K「地理的な移動は関係ないんですね。荒川や河原の作品の狭さを見ていると。」

O「ほんと。その通り。田舎者は田舎者。」

K「日本人が見ていて「ほっとする」、海外展開の戦後日本の今日に至る「現代アート」。「頭なでなで」(笑)。」


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