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ジャータカ物語を読んでみる テーラワーダ仏教の「ほつれ目」①

パーリ三蔵読破への道 連載第五回
佐藤哲朗

ジャータカ(本生)の世界

 今回は、小部(クッダカ・ニカーヤ)のジャータカ(本生)を読んでみたいと思います。前章で詳述したように、パーリ三蔵の中でも経蔵の小部は成立が遅かったので、のちに大乗仏教に至るような仏教の変容過程を考察する上で興味深いセクションになっています。
 ジャータカとは、釈尊の前生での活躍を記録したとされる説話文学です。ジャータカというとすぐに「物語」が連想されると思いますが、三蔵の経蔵(スッタ・ピタカ)に収められているのは、偈(ガーター)という詩の部分のみです。
 この詩を「注釈」する形で綴られたのが、いわゆる「ジャータカ物語」なのです。ジャータカの偈だけ羅列して読んでも、何のことだか分からない箇所も多いので、ジャータカという場合は必ず註釈書を併せて読むことになります。
 パーリ経典のジャータカを全訳した作品としては、『南伝大蔵経』シリーズ(大蔵出版)と、『ジャータカ全集』(春秋社)がありますが、当然、両者ともジャータカ本文(偈)と註釈(物語)を併せた訳出となっています。

ジャータカの基本的な構成

 ジャータカの註釈書を書いたのは『清浄道論』でも知られるブッダゴーサ長老とされています(西暦五~六世紀頃)。ただ、註釈の筆致はものによってずいぶん異なるので、実際には複数の註釈家の手によって成ったのではないかと思います。単なる印象ですけど。
 全集を通読すると、ジャータカには次のような基本的な特徴があることが読み取れます。

(一)だいたい、お釈迦様は祇園精舎に滞在しておられる。
(二)サンガの人々の間で、何か事件が起こる。
(三)お釈迦様がその事件を知って当事者を問いただす。
(四)事件を聞いたお釈迦様は、「過去にもこんなことがあった」と事件にまつわるご自身の過去生の因縁話を語る。
(五)因縁話の舞台は「むかし、バーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたとき」と決まっている。
(六)因縁話の肝心どころで、ジャータカの本文にあたる偈(ガーター)が挟まれる。ジャータカの偈以外にも、関連した偈が挿入されることがある。
(七)因縁話のオチは、「そのときの事件の当事者は、現生の当事者の某であり、事件を解決した(または傍観していた)某は私、つまり菩薩時代の釈尊であった」という決まり文句で締められる。
(八)お釈迦様の家族や直弟子たちは、過去生でも家族や主従関係にあったとされる。例えば、善玉はアーナンダ尊者やマハーカッサパ尊者など釈尊教団のVIP、悪役としてデーヴァダッタやコーカーリカといった悪比丘が配される。
 ジャータカには五四七(冒頭の三種の「因縁物語」を含めると五五〇)の物語が収録されているといわれますが、実際には「この物語は○○の物語で詳しく述べられるだろう」として省略されているものもけっこうあります。五五〇という語呂のいい数に合わせたかっただけかもしれません。

ジャータカの中のネガティブな要素

 それにしたって、五〇〇以上の説話が詰まっているわけです。実際、ジャータカ物語は、カオスとしか言いようのない多様性のあるテキストです。他の仏典にはあまり見られないネガティブな要素をあえて挙げてみると、

(九)女性に対する憎悪や蔑視が目立つ。また、動物を「カースト」のメタファーにして下位カーストや混血者が上位カーストの地位を狙うことを非難するなど、古代インドの世俗の価値観に迎合している物語が多い(例外もある)。
(十)菩薩は四阿僧祇十万劫という果てしない時間をかけて十の波羅蜜(パーラミー、仏陀になるための能力)を完成するが、その過程で「妄語戒(嘘をつかないという戒め)」以外の戒律は守らない。菩薩が残酷な行為をしても、非難は受けない(自業自得で酷い目に遭うことはある)。

(九)の実例として、雌ライオンに恋をして言い寄ったジャッカルの話があります。ジャッカルのような低劣な獣に言い寄られたことにショックを受けた高慢な雌ライオンは、「鼻から吸う息を止めて死んでしまおう」とします。頭の良いジャッカルは「やっぱオレにはなびいてくれねぇな」と潔く引き下がったのですが、雌ライオンがこのことを仲間にチクったことで、ジャッカルは菩薩の雄ライオンに殺されてしまいます。
 これは、異なるカーストの恋愛のメタファーであることは明白で、上位カーストを口説くような奴はリンチに遭って殺されても仕方ない、という物語ですね、ふつうに読めば。
 女性の扱いもとんでもなく酷いです。ジャータカに出てくる女性は、ちょっと目を離すとすぐ不倫する淫奔なキャラばかりです。また、不倫したついでに、すぐに夫を殺そうと企む毒婦もオンパレード。そうでなくても、金色の孔雀を食いたいとか、猿の心臓を食いたいとか、異常な食欲にとりつかれてワガママばかり言います。さらに、男が俗世を捨てて森で静かに修行していると、色仕掛けで邪魔しに来る。そんなのばっかり。ミソジニー(女嫌い)文学とレッテルを貼られても仕方ないかもしれません。
 ジャータカ物語の十三話では、「災いあれ! 矢じりのついた矢を深く射込む人に。災いあれ! 女性が指導者である国に。女性の支配下に入った者たちもまた咎められる」と、菩薩が女性のリーダーシップを呪詛した詩が紹介されます。そういうジャータカにいまも深く親しんでいる上座仏教国のスリランカは、世界初の女性首相を出した国なのですが……。

玉石混淆な文学作品としてのジャータカ

 かといって、男性が立派かというと、そんなことはありません。我が娘の貞節を試すために森に誘い込んでレイプするぞと脅す実父とか、自分の弟子に母親を色仕掛けで誘惑させて死に至らしめる息子とか、「偉大なる放棄」と称して自分の妻や子供を奴隷としてお布施してしまう王様とか、註釈家が必死にフォローしてもドン引き必至の狂った男がたくさん出てきます。
 でも、そういう男性の行為は極力正当化され、賞賛されるのですから、フェミニストでなくても不快な気持ちにはさせられます。僕はジャータカを現代人に向けてプレゼンする役目のお坊さんではないので、素直な感想だけ述べました。
 異論もあるかもしれませんが、お釈迦様の聞き書きを基に編纂された他のパーリ経典と比べると、ジャータカはかなり玉石混淆な、聖典として取り扱うのが難しい文学作品ではないかと思います。表面的な「エグさ」や「荒唐無稽さ」にとらわれずに、道徳的なエッセンスを抽出する見事な語り手がいれば、それなりに道徳的な文学として機能しますが、字面を追っていると、とんでもない悪感情を育てかねない。
 それって、大乗仏教の仏典類に似ていませんか? 大乗仏教は大衆のための教えと言いつつ、大乗の仏典には、大衆が大衆の感性で読むと真理からどんどん逸脱してしまうトリッキーな表現が頻出する。高度な仏教的な知識を持った高僧が解説することで、はじめて「真理の媒体」として機能し得る(かもしれない)のです。

菩薩は決して嘘をつかない

 あと、(十)の項目ですが、ブッダゴーサ(とされる註釈家)は、「じつに菩薩には、殺生も不与取も邪淫も飲酒もある場所においてはあり得るが、道理を破壊する虚偽の言葉を選んで嘘をつくことは、決してあり得ない。」(四三一話)と明言しています。
 この註釈が書かれたジャータカでは、菩薩は森の中で旅人を襲う盗賊団の首領になっています。当然、善良な旅人を身ぐるみはいで殺すのが仕事です。他にも、王様だった頃の菩薩が政敵を殺したりするのは勿論、妻に裏切られた(不倫されて、ついでに殺されそうになった)菩薩王が、「不倫相手を棒で撃ち殺し、不貞の妻の耳と鼻を生きながら削いでしまえ!」と命令する(経典にあたる韻文部分)くだりまであります。しかしあとになって怒りを静めて追放刑にとどめた、と物語(註釈書)でフォローしているのが、おかしいです。
 でも、菩薩は嘘だけは決してつかないんですね。なぜかといえば、嘘をついたら「私は十波羅蜜を完成して仏陀になる」という、菩薩が菩薩となったときの「誓願」自体が嘘になってしまうからです。「嘘をつかない」ということは、菩薩にとって自己のアイデンティティの根幹にかかわる、何があっても譲れない一線なのです。
 ということは、日本でよく言われる「嘘も方便」という言葉は、菩薩の辞書にはないのです。残念ながら、ウソつきは菩薩になれません。

菩薩となる条件とは

 さて、ジャータカ物語の冒頭には、因縁物語(ニダーナカター)という長編の物語が置かれています。ジャータカの序説にあたり、パーリ語で遺された仏陀の伝記文学としては最もまとまったものだとされています。ニダーナカターは三つのパートに分かれています。遠い因縁物語、遠くない因縁物語、近い因縁物語、です。
 最初の「遠い因縁物語」は、のちに釈迦牟尼仏陀となるスメーダ行者が、ディーパンカラ仏陀(過去二十八仏の四番目)から授記(将来、汝は仏陀となるだろうという認証)を受けてから、ディーパンカラからカッサパまでを含む二十四の過去仏に仕えながら四阿僧祇十万劫にわたって輪廻を繰り返し、十の波羅蜜を完成して、菩薩としての最後の誕生をする直前、兜率天に生まれ変わるまでが描かれます。
 遠い因縁物語には、仏陀を目指す「菩薩」となる条件というものが八つ掲げられています。

(一)人間であること、(二)男性であること、(三)〔さとりを得る〕素因のあること、(四)師(仏陀)にまみえること、(五)出家していること、(六)〔冥想や神通力の点で〕優れた特質を備えていること、(七)〔仏陀に対して〕奉仕すること、(八)〔修行への〕意欲を持つこと。

 という八つの条件がそろったところで、菩薩となるべき決意が完遂するというのです。実際に四阿僧祇十万劫前にディーパンカラ仏陀とまみえたというスメーダ行者は、男で、すでに出家して結髪行者として修行の道に入っており、優れた志を持ち、学問に優れ、禅定と神通の達人であり、仏陀と直接に出会い、仏陀が通る道に身を横たえて奉仕し、云々と菩薩の条件がそろっていました。
 菩薩とは、もともと人並み外れて優れたスーパーエリートが志願する道なのです。「あの人は菩薩だよ」と、日本人が感傷を込めて言うようなものではありません。

菩薩を信仰しないテーラワーダ仏教

 しかも、菩薩道を歩む人は、長い輪廻の中で必ずしも善人とは限りません。盗賊になって人の物を奪ったり、王様として政敵を殺したりもするかもしれません。そんなヤバイ人が本当に「信仰」の対象になるものでしょうか?
 テーラワーダ仏教の世界で「菩薩の信仰」がないのは、このようなジャータカ物語がよく読まれているからに他ならないのですね。お釈迦様はすごい人、その前生を記録したジャータカも教訓の宝庫。でも、菩薩は嘘をつかない以外は何をするか分からないので、信仰なんかできない。そういうことです。
 後述しますけど、ニダーナカターで挙げられた八つの菩薩の条件というのは、けっこう重要で、仏教の教学、とりわけ大乗仏教の教学に大きな影響を与えました。
 ここで、話の前提を整理しておきましょう。菩薩、菩薩、と言いますが、そもそも菩薩って何でしょう? 仏陀、仏陀、と言いますが、仏陀って何でしょう?
 こういうことは先にはっきりさせないと、頭がこんがらがってしまいます。
 菩薩とは、一義的には「仏陀を目指して」修行する人です。仏陀になろうという誓願(ちかい)を立てて、果てしない時間をかけて仏陀になることを誓った人なのです。
 この場合の「仏陀」とは、正等覚者(サンマーサンブッダ、正覚者、正自覚者)と呼ばれる存在です。さとった人は本来みんな「仏陀」でいいんですけど、正等覚者という仏陀は、「仏陀の教えが無い、真理の教えが滅している」状態の世界に乗り込んで、仏陀となり、さとりの道を人々に解き明かす役割を負った特別な仏陀、ということになります。
 ということで、ジャータカにおける菩薩の定義とは、「特別な仏陀=正等覚者になる道を歩む人」なのです。だから、スペシャルです。

テーラワーダ教学の「ほつれ目」としてのジャータカ

 すごく端折って言うと、紀元前後に発生した大乗仏教は、「仏弟子たるものは、このスペシャルな存在となる道を歩むべきだ」と思った人々のサークルから始まったのだと推測できます。「大乗」と聞くと、何となく、誰でも救われる大衆主義のように聞こえます。しかし、初期の大乗経典をつぶさに読むと、成り立ちはゴリゴリの超エリート志向者たちのセクトだったようなのです。
 お釈迦様の教えがあるのに、わざわざ仏教がなくなった後のことまで心配して正等覚者を目指すノイローゼのエリートは別にして、お釈迦様が説いた教えのとおりに修行して、さとる人も当然「仏陀」です。そういう方々のことは「随覚者(アヌブッダ)」ともいうのですが、あまり一般的ではありません。ふつうは阿羅漢(アラハン)といいます。
 阿羅漢は正等覚者たるお釈迦様の称号の一つですから、さとりの境地としては同じです。お釈迦様の説かれた道が現にそこにある。ならばその道を歩めばいいではないか、と現代人の私なんかは思います。
 それでも、大乗仏教のような大胆な運動が興った背景には、「阿羅漢」と呼ばれる聖者たちの権威の地盤沈下(後日、触れるかもしれませんが、アビダルマ文献が盛んにつくられた部派仏教の時代には、阿羅漢にさとった聖者もまた元の俗人に戻ってしまうのではないか、という「阿羅漢退論」が論じられました)、初期経典の一部のフレーズを拡大解釈した「像法・末法」の思想の流行などがあったようです。
 正等覚者、随覚者(阿羅漢)という二種類の仏陀の他に、独覚者(パッチェーカブッダ、辟支仏)という仏陀もいます。独覚者は他の仏陀の教えを受けずに、ひとりで真理をさとる聖者です。せっかく真理をさとったのだから、皆にそれを教えてくれればいいと思うのですが、独覚者は説法しないということになっています。
 でも、ジャータカ物語や他の註釈書をよく読むと、独覚者も在家者の問いかけに応じて説法していたり、他の独覚者と共同生活していたりしているような箇所もある。文献から推測すると、要するに、教義を体系化して、のちのちまで続くような教団(サンガ)を組織する、ということはしない仏陀のようです。現代的に連想するのは、ジッドゥ・クリシュナムルティのような人かなぁという気もします。
 阿羅漢も辟支仏も仏陀ですから、さとりの立場からは同格なはずなのです。しかし、ジャータカ物語には、菩薩である黄金の孔雀が説法することで猟師が辟支仏となり、辟支仏となった後も菩薩の孔雀からさらに説法を受ける、という特異なエピソードも入り込んでいます(四九一話)。註釈では、修行完成者の独覚よりも、誓願を立てて修行している菩薩の智慧の方が、より優れていると説明しています。
 これは上座部の教学からすると、かなり微妙な説明でしょう。人外の「菩薩」が人間をさとりに導き、完成者である独覚者にあれこれ指図するのですから、ほとんど大乗仏教みたいです。このように、ジャータカ物語には鉄壁の論理性と無矛盾性を誇るテーラワーダ教学の「ほつれ目」のような箇所も見受けられるのです。

菩薩の存在と大乗仏教における男女差別

 大乗という言葉が出たついでに言えば、菩薩になる八つの条件の二番目には、「男性であること」が挙げられていますよね。これって、菩薩道を歩むためには、「女性に生まれない訓練」を完成していなければいけない、ということなのです。
 パーリ経典の一部にも、誰も真理を知らない無仏の時代に仏教を打ち立てる正等覚者は、男性でないといけないとする記述があることはあります。しかし、同時に、歴代の正等覚者(過去二十八仏)には、必ず女性の高名な出家弟子がいたとされていました。仏教は男女の違いなどに左右されない、あくまで普遍的なシステムだということです。初期仏教の時代には、少なくとも仏道の実践面では男女平等が保証されていたのです。
 しかしジャータカのような仏伝文学が俗世間の価値観をのみ込みながら雪だるま状に膨らんで発達し、それを真に受けて「正等覚者になるぜ!」と意気込む大乗仏教が勃興すると、困ったことが起きました。菩薩になれるのは「男性だけ」だったからです。
 菩薩は「男性だけ」しかなれないから、大乗仏教の菩薩道においては、男女差別が構造的に固定化されてしまいました。それを突破しようとして、法華経の龍女成仏、変成男子のようなトリッキーな仏典が要請された、とも推測できるのです。
 大乗仏教がいくら新しい教えだったとしても、その言説は必ず、初期仏教時代に発達した「仏陀論」の教学を「踏まえて」いました。踏まえていたが故に、新しいことを言おうとして、逆に初期仏教が持っていたラディカルな教えが後退してしまうという皮肉な現象も起きたのですね。
 ちょっと脱線気味になってしまいましたが、ジャータカは読み返すたびにいろんなアイデア(妄想)が湧いてくるテキストです。

(初出:サンガジャパン Vol.5(2011Spring) ,サンガ,2011/4/11、単行本『日本「再仏教化」宣言!』サンガ,2013/12/27収録時に加筆修正)

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