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増支部(アングッタラニカーヤ)の経典を読んでみる

今回は増支部経典を読んでみたいと思います。

アングッタラ(aṅguttara) は「数を増す」といった意味になります。指折り数えるように、一集から十一集まで、経典のキーワードを法数、つまり真理を表す数でまとめた経典グループが増支部(アングッタラニカーヤ)です。

たとえば一集に収められた経典は、「比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない焦り後悔を生じさせ既に生じた焦り後悔を増し広げる法を他に一つも見ない」というフレーズで語られます。三集は、「比丘たちよ、隠しておいたほうが効果的で、あらわにすると効果がなくなるものが三つあります。三つとは何でしょうか?」という具合です。

このようには明示されず、長い経典の中でお釈迦様が仰ったキーワードを数えてみたら八あったので八集とか、四つなので四集とか、覚りのために育てるべき特質五つとその具体的な修行法六つを合わせて十一集にした経典とか、いろいろです。

法数を基準にまとめるというかっちりした編集方針から、増支部はアビダルマの先駆だとか、パーリ経典の中でも比較的後期にまとまったとか言われています。でも、南伝大蔵経の古めかしい日本語訳で読んでも、非常に迫力ある、お釈迦様の声が耳元でガンガン響いてくるような素晴らしい説法の数々が収められています。個人的にも、長部・中部・相応部・増支部のうちでどれを愛読しているかと言われれば、増支部になります。

増支部は、数え方によっては七千以上の経典が収録されていると言われています。憶えて念じれば瞑想に使えそうな超短い標語のような経典から、深い物語性、思想性をたたえた経典まで、バラエティ豊かです。

今回は個人的に気に入っているお経をいくつか選んで、紹介したいと思います。南伝大蔵経をもとにパーリ原文を参照にして現代語に改訳しました。大きな間違いはないように気をつけたつもりですが、おかしな「超訳」になっていないことを願うばかりです(「ゆるふわ訳」程度で収まっていれば幸い)。

著者コメント

男と女の心を占領するもの(一集)

このように私は聞きました。

世尊(お釈迦様)が舎衛城の祇園精舎に滞在されておられた時のことです。

そこで世尊は比丘(出家者)たちを「比丘たちよ」と呼びました。

彼ら比丘たちは「大徳よ」と世尊に応えました。

世尊はこのように説かれました。

比丘たちよ、私はこれほどに男の心を占領する体(色)は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち女の体である。比丘たちよ、女の体は男の心を占領する。 1-1

比丘たちよ、私はこれほどに男の心を占領する声は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち女の声である。比丘たちよ、女の声は男の心を占領する。 1-2

比丘たちよ、私はこれほどに男の心を占領する匂い(香)は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち女の匂いである。比丘たちよ、女の匂いは男の心を占領する。1-3

比丘たちよ、私はこれほどに男の心を占領する味は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち女の味である。比丘たちよ、女の味は男の心を占領する。 1-4

比丘たちよ、私はこれほどに男の心を占領する触感(触)は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち女の触感である。比丘たちよ、女の触感は男の心を占領する。 1-5

比丘たちよ、私はこれほどに女の心を占領する体(色)は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち男の体である。比丘たちよ、男の体は女の心を占領する。 1-6

比丘たちよ、私はこれほどに女の心を占領する声は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち男の声である。比丘たちよ、男の声は女の心を占領する。1-7

比丘たちよ、私はこれほどに女の心を占領する匂い(香)は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち男の匂いである。比丘たちよ、男の匂いは女の心を占領する。 1-8

比丘たちよ、私はこれほどに女の心を占領する味は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち男の味である。比丘たちよ、男の味は女の心を占領する。1-9

比丘たちよ、私はこれほどに女の心を占領する触感(触)は他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち男の触感である。比丘たちよ、男の触感は女の心を占領する。1-10
(増支部一集1-1~1-10色等品)

しょっぱなからドキッとさせられる内容ですが、これが増支部一集の最初の経典です。修行僧が警戒すべき異性の魅力について、いきなり事実を突きつけるのです。経典には続きがあります。

著者コメント

心の汚れを生じさせるもの/無くすもの(一集)

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない愛欲(貪欲)を生じさせ既に生じた愛欲を増し広げる法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち [相手への]好印象(浄相)である。比丘たちよ、道理に照らさず [相手に] 好印象を持つと、未だ生じていない愛欲が生じ、また既に生じた愛欲も増し広がる。2-1

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない敵愾心(瞋恚)を生じさせ既に生じた敵愾心を増し広げる法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち[相手への]悪印象(違相)である。比丘たちよ、道理に照らさず[相手に]悪印象を持つと、未だ生じていない敵愾心が生じ、また既に生じた敵愾心も増し広がる。2-2

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない眠気ダルさ(惛沈睡眠)を生じさせ既に生じた眠気ダルさを増し広げる法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち不平不満、倦怠、あくび、飽食、(要は)心のぶったるみである。比丘たちよ、心がぶったるむと、未だ生じていない眠気ダルさが生じ、また既に生じた眠気ダルさも増し広がる。2-3

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない焦り後悔(掉挙悪作)を生じさせ既に生じた焦り後悔を増し広げる法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち心のざわつき(心不寂静)である。比丘たちよ、心がざわざわしていると、未だ生じていない焦り後悔が生じ、また既に生じた焦り後悔も増し広がる。2-4

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない優柔不断(疑)を生じさせ既に生じた優柔不断を増し広げる法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち、因果関係に沿わない考察(不如理作意)である。比丘たちよ、因果関係に沿わない考察によって、未だ生じていない優柔不断が生じ、また既に生じた優柔不断も増し広がる。2-5

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない愛欲(貪欲)を生じさせず既に生じた愛欲を絶つ法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち、[肉体に対する]不浄の見方(不浄相)である。比丘たちよ、不浄の見方を道理に照らして意識すると、未だ生じていない愛欲は生じないし、既に生じた愛欲も絶たれる。2-6

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない敵愾心(瞋恚)を生じさせず既に生じた敵愾心を絶つ法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち、慈しみで解き放たれた心(慈心解脱)である。比丘たちよ、慈しみで解き放たれた心を道理に照らして意識すると、未だ生じていない敵愾心は生じないし、また既に生じた敵愾心も絶たれる。2-7

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない眠気ダルさ(惛沈睡眠)を生じさせず既に生じた眠気ダルさを絶つ法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち、努力、精進、猛精進である。比丘たちよ、精進によって、未だ生じていない眠気ダルさは生じないし、また既に生じた眠気ダルさも絶たれる。2-8

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない焦り後悔(掉挙悪作)を生じさせず既に生じた焦り後悔を絶つ法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち、心の落ち着き(心寂静)である。比丘たちよ、落ち着いた心によって、未だ生じていない焦り後悔は生じないし、また既に生じた焦り後悔も絶たれる。2-9

比丘たちよ、私はこれほどに、未だ生じていない優柔不断(疑)を生じさせず既に生じた優柔不断を絶つ法を他に一つも見ない。比丘たちよ、即ち、因果関係に沿った考察(如理作意)である。比丘たちよ、因果関係に沿った考察によって、未だ生じていない優柔不断は生じないし、また既に生じた優柔不断も絶たれる。2-10
(増支部一集2-1~2-10断蓋品)

前半(2?1~2?5)では五蓋(貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉挙悪作・疑)を生じさせる主要な原因(法)を説いています。前の経典を受けている感じなので、貪欲(kāmacchanda)は異性への愛欲と解釈しました。後半(2?6~2?10)は五蓋を断つための実践(法)を列挙します。

著者コメント

ありえないこと(一集)

次もやはり増支部の一集から、覚りに達したひとの境地を端的に解説した経典を紹介します。

著者コメント

比丘たちよ、これは道理のないことだ。正見を具えた聖者(見具足者)が諸々の現象(諸行)を常だと思うことはありえない。でも、凡夫が諸々の現象(諸行)を常だと思うことはある。15-1

比丘たちよ、正見に達した人が諸々の現象(諸行)を楽だと思うことはありえない。でも、凡夫が諸々の現象(諸行)を楽だと思うことはある。15-2

比丘たちよ、これは道理のないことだ。正見を具えた聖者が諸々の物事やら概念やら何やら(諸法)を自足した実体(我)だと思うことはありえない。でも、凡夫が諸々の物事やら概念やら何やら(諸法)を自足した実体(我)だと思うことはある。15-3

比丘たちよ、これは道理のないことだ。正見を具えた聖者が母を殺すことはありえない。でも、凡夫が母を殺すことはある。15-4

比丘たちよ、これは道理のないことだ。正見を具えた聖者が父を殺すことはありえない。でも、凡夫が父を殺すことはある。15-5

比丘たちよ、これは道理のないことだ。正見を具えた聖者が阿羅漢(最高の聖者)を殺すことはありえない。でも、凡夫が阿羅漢を殺すことはある。15-6

比丘たちよ、これは道理のないことだ。正見を具えた聖者が悪意をもってブッダ(如来)の体から血を流させることはありえない。でも、凡夫が悪意をもってブッダ(如来)の体から血を流させることはある。15-7

比丘たちよ、これは道理のないことだ。正見を具えた聖者が修行者の集い(サンガ)を仲違いさせることはありえない。でも、凡夫が修行者の集い(サンガ)を仲違いさせることはある。15-8

比丘たちよ、これは道理のないことだ。正見を具えた聖者がブッダ以外の師匠につくことはありえない。でも、凡夫がブッダ以外の師匠につくことはある。15-9
(増支部一集15-1~15-9)

仏教を実践して正見を具えた聖者(預流者)は、無常・苦・無我という真理の見方から外れることはあり得ない。でも、凡夫なら常・楽・我という顛倒した見方にひっかかることはあり得る(1~3)。同じく聖者は五逆罪を犯すことはあり得ない。凡夫ならあり得る(4~8)。という聖者と凡夫を対比させた表現が小気味良い経典です。

この経典は、ここまでは仏教の基本教義の解説になっていますが、次節からは同じフォーマットを使って、一世界には同時に二人のブッダ(正覚者)が出現することはないとか、女性が正覚者や転輪王になることはないとか、仏教の「基本設定集」のような、どちらかというとアビダンマ的な説法が続きます。それはそれで面白いのですが、割愛します。

著者コメント

カルト避けに最適の経典(三集)

ご存知のように、現代社会には「●●聖人から秘密に伝えられた法門」とか「秘密裏に守られてきた奥義」といった代物を持ち出して、人々を洗脳しようとするカルト宗教が跳梁跋扈しています。残念なことに、そういう連中が仏教を名乗っているケースも少なくないのです。

彼らは「秘密の教えの伝授」と称して、人々を閉鎖した環境に誘い込み、マインドコントロールを施して大金を巻き上げる。家族や友人関係をメチャクチャに破壊する。「秘密の教え」という宣伝文句は、詐欺・恐喝・暴行など犯罪の温床となっている現状があります。

ブッダが示された基準に従うならば、こそこそと教えを隠す時点で、それがまがい物・インチキであることは間違いありません。躊躇なく捨て去るべきです。増支部三集に、次のような力強いブッダの言葉が記録されています。

著者コメント

比丘たちよ、隠しておいたほうが効果的で、あらわにすると効果がなくなるものが三つあります。

三つとは何でしょうか。

女性(の身体)は隠しておいたほうが効果的で、あらわにすると効果がなくなるものです。

バラモンたちの呪文は隠しておいたほうが効果的で、あらわにすると効果がなくなるものです。

邪見は隠しておいたほうが効果的で、あらわにすると効果がなくなるものです。

比丘たちよ、あらわになると輝き、隠されると輝かないものが三つあります。

その三つとは何でしょうか。

月はあらわになると輝き、隠されると輝かないものです。

太陽はあらわになると輝き、隠されると輝かないものです。

如来の説かれた真理と戒め(実践)は、あらわになると輝き、隠されると輝かないものです。
(増支部三集129覆蔵経)

不完全で正しくない教えなら、あまり公にさらさないほうが無難でしょう。しかし教えが真理ならば、万人に向けて完全に開かれてこそ、燦然と輝くはずなのです。世の中のカルト宗教やスピリチュアル商売に関わるほとんどの問題は、釈尊のこの真理の言葉をモットーとすることで消え去るだろうと思います。

著者コメント

ブッダは真理を自ら実証して説く(四集)

増支部四集の婆羅門真諦経(Brāhmaṇasaccasutta)は、外道の遊行者たちとの対話を通じて、ブッダの境地を浮かび上がらせた経典です。

著者コメント

あるとき世尊は王舎城のギッジャクータ山に住んでおられた。その時、数多くの名高き遍歴行者たちがサッピニ河岸にある遍歴者の園に住んでいた。アンナバーラ、ヴァラダラ、サクルダーイー遍歴行者、およびその他の名高き遍歴行者であった。

時に世尊は夕刻時に独坐より起ち、サッピニ河岸にある遍歴行者の園に参られた。またその時、集まり坐している彼ら外道の遍歴行者のあいだに、「これもバラモンの真理である、これもバラモンの真理である」という談話が交わされていた。

時に世尊は遍歴行者の処に参られた。参られて設けられた席に坐られた。坐られた世尊は彼ら遍歴行者たちに告げられた、「遍歴行者たちよ、どんな談話のために集まり坐しているのですか。また、中断したあなた方の対話は何ですか」と。

「ゴータマさん、ここに集まり坐している我々は、このような対話をしました。曰く、『これもバラモンの真理である、これもバラモンの真理である』」と。

(世尊はそれに応えてこう述べました。)

「遍歴行者たちよ、私はこれら四つのバラモンの真理を自ら証知して、実証して(さとり)、説いています。

四つ(の真理)とは何でしょうか。

(1)遍歴行者たちよ、バラモンはこのように説きます。曰く、『すべて生きものは殺してはならない』と、このように語るバラモンは真理を語っています、(その言葉は)虚偽ではありません。

彼はこれ(言葉)により沙門であると思わず、バラモンであると思わず、自分は優れていると思わず、自分は等しいと思わず、自分は劣っていると思わない。また、即ちそこに真理を証知し、すべての生きものへの同情、哀れみのために修行を完成するのです。

(2)また次に遍歴行者たちよ、バラモンはこのように説きます。曰く、『すべて欲望は無常である、苦である、変易の法である』と、このように語るバラモンは真理を語っています、(その言葉は)虚偽ではありません。

彼はこれ(言葉)により沙門であると思わず、バラモンであると思わず、自分は優れていると思わず、自分は等しいと思わず、自分は劣っていると思わない。また、即ちそこに真理を証知し、諸々の欲望の厭離のため、離貪のため、滅尽のために修行を完成するのです。

(3)また次に遍歴行者たちよ、バラモンはこのように説きます。曰く、『すべて生存は無常である、苦である、変易の法である』と、このように語るバラモンは真理を語っています、(その言葉は)虚偽ではありません。

彼はこれ(言葉)により沙門であると思わず、バラモンであると思わず、自分は優れていると思わず、自分は等しいと思わず、自分は劣っていると思わない。また、即ちそこに真理を証知し、諸々の生存の厭離のため、離貪のため、滅尽のために修行を完成するのです。

(4)また次に遍歴行者たちよ、バラモンはこのように説きます。曰く、『私は、どこの誰でも、なにものでもない。また、私のものは、どこにも何も、あるものではない』と、このように語るバラモンは真理を語っています、(その言葉は)虚偽ではありません。

彼はこれ(言葉)により沙門であると思わず、バラモンであると思わず、自分は優れていると思わず、自分は等しいと思わず、自分は劣っていると思わない。また、即ちそこに真理を証知し、『無所有』の行道の修行を完成するのです。

遍歴行者たちよ、私はこれら四つのバラモンの真理を自ら証知して、実証して(さとり)、説いています」と。
(増支部四集185婆羅門真諦経)

さまざまな宗教家がそれぞれの真理を語ります。その中には確かに虚偽ならぬ正しい言葉が含まれている場合もあるのです。お釈迦様は四つの例を「バラモンの真理」として取り出します。真のバラモンとは、真理として語られる「見解」を我がものと思いなすことなく、ただ自ら修行して道を完成するのです。つまり、真理を実証するのです。ブッダは、これら四つのバラモンの真理を「自ら証知して、実証して(さとり)、説いて」いるのだとさらりと明言されます。

著者コメント

無明の完成/明智と解脱の完成(十集)

1 比丘たちよ、無明(avijjā)の始点(purimā koṭi)は了知されないのです――「これより以前に無明はなかった、またこの後に無明が現れた」というように。

比丘たちよ、しかし私は、無明がこのように了知されるのだと説きます――「これに縁って無明があり」と。

比丘たちよ、私は、無明もまた食(āhāra, 支えるもの、栄養、縁)があり、無食ではないと説きます。何が無明の食でしょうか? 五蓋(欲貪、瞋恚、昏眠、掉悔、疑)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、五蓋もまた食があり、無食ではないと説きます。何が五蓋の食でしょうか? 三悪行(身の悪行為、語の悪行為、意の悪行為)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、三悪行もまた食があり、無食ではないと説きます。何が三つの悪行の食でしょうか? 根(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根)の非防護であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、根の非防護もまた食があり、無食ではないと説きます。何が根の非防護の食でしょうか? 不念不正知(気づきと理解の欠如)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、不念不正知もまた食があり、無食ではないと説きます。何が不念不正知の食でしょうか? 非如理作意(因果関係に沿って考察しないこと)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、非如理作意もまた食があり、無食ではないと説きます。何が非如理作意の食でしょうか? 不信(理解・納得が無いこと)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、不信もまた食があり、無食ではないと説きます。何が信なきことの食でしょうか? 邪法(間違った教え)を聞くことであると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、邪法を聞くこともまた食があり、無食ではないと説きます。何が邪法を聞くことの食でしょうか? 不善の人に親しむことであると答えるべきです。

2 比丘たちよ、このように不善の人に親しむことを完成するなら邪法を聞くことを完成し、邪法を聞くことを完成するなら不信を完成し、不信を完成するなら非如理作意を完成し、非如理作意を完成するなら不念不正知を完成し、不念不正知を完成するなら根の非防護を完成し、根の非防護を完成するなら三悪行を完成し、三悪行を完成すれば五蓋を完成し、五蓋を完成するなら無明を完成するのです。

このように、無明もまた食があって完成するのです。

3 比丘たちよ、たとえば密雲の神が山上に大雨を降らすとき、水は低きに流れて展転して山岳渓谷に満ちます。山岳渓谷に満ちて小さな池に満ちます。小さな池に満ちて大きな池に満ちます。大きな池に満ちて小さな河に満ちます。小さな河に満ちて大河に満ちます。大河に満ちて大海に満ちます。
このように、大海もまた食があって満ちるのです。

比丘たちよ、このように不善の人に親しむことを完成するなら邪法を聞くことを完成し、間違った教えを聞くことを完成するなら不信を完成し、不信を完成するなら非如理作意を完成し、非如理作意を完成するなら不念不正知を完成し、不念不正知を完成するなら根の非防護を完成し、根の非防護を完成するなら三悪行を完成し、三悪行を完成するなら五蓋を完成し、五蓋を完成するなら無明を完成するのです。

このように、無明もまた食があって完成するのです。

4 比丘たちよ、私は、明智と解脱(vijjāvimutti)もまた食があり、無食ではないと説きます。何が明智と解脱の食でしょうか? 七覚支(念・択法・精進・喜・軽安・定・捨)であると答えるべきです。
比丘たちよ、私は、七覚支もまた食があり、無食ではないと説きます。何が七覚支の食でしょうか? 四念処(身・受・心・法の四つの念処)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、四念処もまた食があり、無食ではないと説きます。何が四念処の食でしょうか? 三善行(身の善行為、語の善行為、意の善行為)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、三善行もまた食があり、無食ではないと説きます。何が三善行の食でしょうか? 根(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根)の防護であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、根の防護もまた食があり、無食ではないと説きます。何が根の防護の食でしょうか? 念と正知(気づきと理解)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、念と正知もまた食があり、無食ではないと説きます。何が念と正知の食でしょうか? 如理作意(因果関係に沿って考察すること)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、如理作意もまた食があり、無食ではないと説きます。何が如理作意の食でしょうか? 信(理解・納得)であると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、信もまた食があり、無食ではないと説きます。何が信の食でしょうか? 正法(正しい教え=仏説)を聞くことであると答えるべきです。

比丘たちよ、私は、正法を聞くこともまた食があり、無食ではないと説きます。何が正法を聞くことの食でしょうか? 善き人(ブッダ)に親しむことであると答えるべきです。

5 比丘たちよ、このように善き人に親しむことを完成するなら正法を聞くことを完成し、正法を聞くことを完成するなら信を完成し、信を完成するなら如理作意を完成し、如理作意を完成するなら念と正知を完成し、念と正知を完成するなら根の防護を完成し、根の防護を完成するなら三善行を完成し、三善行を完成するなら四念処を完成し、四念処を完成するなら七覚支を完成し、七覚支を完成するなら明智と解脱を完成するのです。

このように、明智と解脱もまた、食があって完成するのです。

6 比丘たちよ、たとえば密雲の神が山上に大雨を降らすとき、水は低きに流れて展転して山岳渓谷に満ちます。山岳渓谷に満ちて小さな池に満ちます。小さな池に満ちて大きな池に満ちます。大きな池に満ちて小さな河に満ちます。小さな河に満ちて大河に満ちます。大河に満ちて大海に満ちます。

このように、大海もまた食があって満ちるのです。

比丘たちよ、このように善き人に親しむことを完成するなら正法を聞くことを完成し、正法を聞くことを完成するなら信を完成し、信を完成するなら如理作意を完成し、如理作意を完成するなら念と正知を完成し、念と正知を完成するなら根の防護を完成し、根の防護を完成するなら三善行を完成し、三善行を完成するなら四念処を完成し、四念処を完成するなら七覚支を完成し、七覚支を完成するなら明智と解脱を完成するのです。

このように、明智と解脱もまた、食があって完成するのです。
(増支部十集61無明経)

仏教用語の食(āhāra)は「食べもの」というより、栄養、滋養素、広く心身(生活、生命、いのち)を養い支えるものを指します。注釈書には、「縁が『食』と言われる」という記述もあります。これはつまり、言葉を変えた「因縁の教え」です。生命存在に即した食(āhāra)というキーワードを用いることで、人間の堕落と成長のプロセスが、具体的な仏教の修行体系(四念処・七覚支など)に見事に関連づけられています。無明に始点はない、という因縁説のエッセンスを簡潔に解き明かし、「善き人に親しむこと」すなわちブッダ=仏法に学ぶことの大切さを示しています。(了)

著者コメント

『サンガジャパンVol.10』特集「業(カルマ)」(2012年)に寄稿した〈連載第十回「パーリ三蔵読破への道:増支部経典を読んでみる」佐藤哲朗〉を推敲の上で掲載しました。


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