見出し画像

日々思うこと


 先日配信でも話していたのだが、「考える暇がないほどの忙しさ」は希死念慮から遠ざける一つの手段ではないかと考えている。

 一年前のちょうどこの時期、私は酷い希死念慮と焦燥感で生きることが難しくなった。何をするにも罪悪感が付き纏い、「何者でもない自分」に嫌気がさして心を病んでしまった。ちょうど大学4年。ひたすら就活しながら病院と家の往復を繰り返していた。
 もうこんな自分のような社会不適合者なんて社会にとっても生産性が無いし親にも迷惑だし、大事にしてくれる人を大事にできないし、苦しすぎる。朝は人間が忙しなく活動しているから嫌。夜は不安で押しつぶされそうになることに怯えなきゃいけないから嫌。平穏に過ごせるのは深夜2時ぐらいの時間帯だった。何も考えずのうのうと生きている奴らが憎くて、真面目に生きてきた自分がこんなに苦しまなきゃいけない理由が全く分からなかった。正直、今までは真面目なことが取り柄で、それが正解だと信じて疑わなかった。だから、自分はその分救われるはずだと。

 でも現実はそうじゃなかった。理不尽の連続で、誰も私を救ってくれない。むしろ、私に害を与えたり私の心を弄ぶ人間に出会う始末。自己肯定感がさらに下がっていって、自分の存在価値が全く分からなくなった。自分を大事にしたくて仕方ないはずなのに、社会はそれ相応の価値を認めてくれない。トドメは一緒に遊んだフォロワーが3日後に自死を遂げてしまい、本当に生きる意味が分からなくなってしまった。正直、自分も後を追おうとしてした。そんな現実と理想の差異に耐えられず、泣きながら両親に当たり散らす大学4年生だった。


 あの頃はどうやって希死念慮と向き合いつつ生活していたのか…?振り返ってみると、なんだかんだ外へ出掛けていたことに気付いた。あと絵をひたすら描いて、人生について考える時間を極力無くした。絵に没頭して、描くことだけに集中する。一種の現実逃避だったと思うが、私には必要な時間だった。誰にも邪魔されない自分の世界を創造して、自己満足の世界に浸る。自分は嫌いだが、好きなことをしている自分は好きだったので、なけなしの自己肯定感も徐々に回復していったんだと感じる。
 ムカつくけど、絵って私をめちゃくちゃにしてくれたり救ってくれたりするんですよ。まったく…

 今は与えられた仕事と責任で自分の価値をなんとか見出すことができている。あの頃の地獄に比べれば、想像できないくらい幸せだと思う。自分のやりたいことと仕事が合致できているのは、人生最大の幸福の一つだと考えているので。
 そして、初めに書いた「考える暇がないほどの忙しさ」が希死念慮と遠ざけてくれている。ある程度のやることがあって、予定があって、未来の見通しがつくことが心に平穏をもたらしてくれていると思う。

 本当に社会は理不尽なことだらけで、怒りに満ち溢れている。でも、クソなことと同等、いやそれ以上に良いことが実際にあったのも事実。それは個人差によると思うが、あの時諦めてなかったら今のような日常を送れることはなかったわけで。
 確かに当時は「そもそも存在しなければ、幸福と悲しみどちらも感じなくてハッピーじゃね?」精神だったが、時間が経てば、辛かった経験も愛おしく思えてしまってならない。あの地獄があったからこそ、今の私がいて思想があって交友関係がある。特に配信をしていると、運命的な出会いもあるわけでまだ捨てたもんじゃないなと実感する。それは学生時代友人しかり、フォロワーしかりだ。人生を強制終了していたら出会えなかった人とも、こうして今関係を構築できている。これは本当に自分にとって生きてて良かったと思うことの一つだ。

 これを読んでる人も辛さに押しつぶされそうになっているかもしれない。でも、貴方を大切に思ってる人がいることを頭の片隅でも良いので覚えといてくれ〜〜〜!!!自分のことで頭いっぱいなのはめちゃくちゃ分かる!!私もそうだった!!!!他人のことなんて知らね〜〜〜!!!ってなるよな!!だけど、そこで自分の殻に閉じこもり続けて病むより、人に共有して吐き出してしまった方が、発散できたり、意外と解決策が見つかったりするんだぜ。
 どうせこの世に生を受けたのなら、中指立ててでも生きてやろうぜ〜〜〜別に「これじゃないといけない」型なんて無いのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?