でじこが与える「臨界の萌え」という温かさ~『ワンダフル版』第11話『ホカホカご飯』論~
この記事は「萌研」から発行された萌え100万パワーな同人誌『もえけん!!』に、自分が寄稿させて頂いた原稿…それに少し加筆・修正をしたものです。
アニメ『Di Gi Charat』も、『ホカホカご飯』も、僕の魂!それを必死に論じた文章だから、一人でも多くの人に読んで頂きたいんですね。
でも実は『もえけん!!』がbooth上で売り切れになってしまって、実質この評論にアクセスする方法がなくなってしまった!
売り切れること自体はとってもめでたいことなんですが、『ホカホカご飯』を愛するオタク達の元へ、この文章が届かなくなるのは余りにさみしい。
というわけで、インターネット上に公開することにしました。これでみんな読めるから!
めちゃくちゃ長い論考なんで正直note向きではないんですが、こうしてネットに投稿することで『ホカホカご飯』が大好きなオタクに少しでも届くことがあれば良いなと。
ちなみに最高のサムネ画像は、なんとこの記事用に新調していただいちゃったものです!嬉しい〜!!!!!!
最強のデザインセンスを持つ戦友、カピバラ a.k.a.カピバラデザインくんには、足向けて寝れねぇや……
ちなみに萌研の新刊『もえるーと!』の告知も出ています!
最高にカッコよく、萌えが詰まったヴィジュアルマガジン!
自分もコラム2本&座談会に参加させていただいているので、ぜひみんな買ってね~~~~~~~
はじめに~今、「萌え」を語るために~
「萌え」はあまりにも多義的で、様々な用いられ方をしている……『もえけん!』創刊号ではそんな意見が随所で見られました。
ビジュアルの萌え、キャラ性の萌え、関係性の萌え、などなど……様々な名前をつけられたそれらは、形こそ違えどどれも「萌え」の形であることに疑いの余地はないでしょう。
しかしそれらにはある程度の近似性こそあるものの、絶対的な指標が存在しません。枝分かれした多様な「萌え」はどれもなんとなく似てはいるけど、確固たる共通点はない。
これこそが「萌え」の真髄だ!……そう断言できるだけの絶対的な条件はいまだ見つかっていないと言えます。
しかしそれは、よく考えずとも至極当たり前のこと。
この同人誌を主催するnazcaさんが創刊号に収録された座談会で「先に萌えて後から考えたらそうだった」 と仰っていたように、結局「萌え」を論じるという行為は後付けなんですね。
オタクに降って湧いた言語化不可能な感情に対して、頭を捻って後から理由をつけることに過ぎない。オタクが持つ感覚が各人それぞれ異なる時点で、萌えに対してひとつの定義をぶちあげること自体に無理があると言えます。
萌えの確固たる定義づけが半ば不可能に近い以上、「萌え」について今わたしたちが出来ることはひとつしかありません。
それは、この世にもはや無限に存在すると言っても良い「萌え」の形を、様々な人/もの/作品を通して見ていく事です。
人によって、オタクによって、各人で異なるそうした多様な解釈が出来る懐の深さこそが、真の「萌え」のポテンシャルなのかもしれませんから。
もしかしたら萌えがほとんど失われたと言っても良い現在だからこそ、萌えが電気街を席巻していた頃よりも自由なイマジネーションを広げることができるのかもしれない。
オタクたちが新たに自分なりの萌えを定義し直す。そしてそれを時に真面目に、時にくだけて、多様な形で世に問う。それこそが今するべき事なのです。
というわけで私は私なりのかたちで、この『もえけん!!』が提供する多様な「萌え」定義の一部を担いたい。
その実践としてこの文章ではTVアニメ『Di Gi Charat』の主人公・でじこについて、異色のエピソード『ホカホカご飯』の分析を通して、新たな視点の萌えを提示していきます。
『Di Gi Charat』(『ワンダフル版』)と、パターン化された萌え
そもそも『Di Gi Charat』とはどのようなアニメ作品なのか?
アニメや萌え文化に明るくない方にとっては、今や馴染みの薄いタイトルかもしれません。
『Di Gi Charat』(以下一般的な呼び方に準じて『ワンダフル版』と呼称)は1999年末、TBSにて深夜に放送されていた生放送バラエティ番組『ワンダフル』の枠内で放送されていた、1話5分未満のショートアニメ。
本稿で主に取り上げる主人公・「デ・ジ・キャラット/でじこ」と、おっとりした性格から繰り出される毒舌がチャームポイントであるでじこの妹分「プチ・キャラット/ぷちこ」、高飛車なお嬢様キャラながらも憎めない好敵手「ラ・ビ・アン・ローズ/うさだヒカル」が本作のメインキャラクターです。
この3人娘にゲーマーズの常連オタクたちや、でじこのお目付役兼サンドバッグ要員である使い魔「ゲマ」を加えたレギュラー陣が画面狭しと暴れ回り、シュールなギャグと萌えを爆発させる。そんな娯楽色に溢れた愉快な雰囲気が、『ワンダフル版』最大の魅力ですね。
こと作風に注目して本作の大まかな位置づけを考えてみますと、『うる星やつら』(1981~86)や『プロジェクトA子』(1986)といった元祖ドタバタ美少女ギャグアニメ群の後輩に当たるのでしょうか。
そして『ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて』(2002)に代表される「邪道魔法少女シリーズ」や、"アニメ様"こと小黒祐一郎氏をして「今まで越えられなかった一線を越えたアニメ」 とまで言わしめる怪作『ギャラクシーエンジェル』(2001~04)といった00年代の無法地帯ギャグアニメの先輩、という印象がありますね。
『ワンダフル版』の13年前には『プロジェクトA子』がドタバタ美少女ギャグアニメとしてマニア間で人気となっていますし、さらにその先祖としては『うる星やつら』がある……
アニメファンの中でドタバタ美少女ギャグアニメというジャンルが完全に定着した(なんなら飽和に向かっていた)時期に生まれたのが『ワンダフル版』と言えるのではないでしょうか。
そんな『ワンダフル版』はキャラクターショップ「ゲーマーズ」の運営などで知られる株式会社ブロッコリーが展開したコンテンツ、『デ・ジ・キャラット』から派生して生まれたシリーズ初のTVアニメ作品。
その後、このコンテンツからは女児をターゲットに据えた『ぱにょぱにょデ・ジ・キャラット』や『デ・ジ・キャラットにょ』、他作品とは明確に異なる時間軸のキャラクターたちの"現実"を描く異色作『ウィンターガーデン』など多種多様なアニメ作品が生まれていきます。
これらの作品は主人公の「でじこ」や世界観自体の設定からして異なっており、同シリーズといってもパラレルワールド的な立ち位置です。
本稿ではそんな多様な『デ・ジ・キャラット』アニメシリーズの中でも、原点である『ワンダフル版』のみを取り上げていきます。(その為、文中における「でじこ」は注記のない限り『ワンダフル版』におけるでじことする。)
多様に枝分かれした歴史あるシリーズを支えてきたでじこのデザインは、誕生した約25年前の時代性を感じさせるもの。まさに萌え萌え〜としか言いようがない!
しかし、初めてでじこを見る方は「萌え〜」と素直に思うと同時に、「典型的なデザイン」だという印象を持つのではないでしょうか。
ある程度二次元コンテンツに触れてきた人間なら幾度となく目にしてきたであろう、メイド服やネコミミ。
でじこのコスチュームと見た目には、あらゆるオタクが感覚で知っているような「萌え要素」のテンプレートが、ふんだんに盛り込まれているのです。
オタクの聖地・アキバにおけるメイドカフェやコスプレの文化を想起させるメイド服・ネコミミ・エプロンといった衣装はもちろんのこと、幼さを感じさせるくりくりとした大きな目や鮮やかな緑髪は、いかにも萌えキャラ然とした姿といえます。
こうした衣装や髪色などは、『ワンダフル版』でじこに限らず、様々な作品のキャラクターにおいて頻繁に採用されている「萌え要素」と言えるでしょう。
この場合において「萌え要素」とは、受け手の「萌えだ!」という感情を誘発するモチーフのことを指します。メガネやツインテールといった容姿と直接関係があるモチーフも「萌え要素」ですし、ツンデレやヤンデレといった可愛らしい性格のテンプレートも「萌え要素」。
なんなら、でじこを象徴する特徴的な語尾である「にょ」も、「語尾キャラ」という萌え要素ではありますからね。
もちろん、でじこという存在がそもそもテンプレートな美少女へのメタを取っていくような性質を持つキャラクターであることは強調しておかねばなりません。
でじこの語尾がキャラクターデザインを担当したこげどんぼ*氏によって「猫耳キャラが「にゃ」なのはつまらないから」と設定された語尾である例(「コンプティーク」2022,12 p6)であることからも、でじこのメタ的な性質は推して知ることが出来ますね。
しかしそんな性質を持つでじこであっても、こと『ワンダフル版』においては、特に記号的な「萌え要素」とは切っても切り離すことが出来ません。
何故なら『ワンダフル版』というアニメの画面は、でじこの「記号的な萌え要素を持つ」キャラクター性の魅力を存分に引き出そうと志向しているからです。
でじこの持つ萌えの形を『ホカホカご飯』中心に論じていく前にこの章ではまず、記号的なでじこの「片鱗」に寄り添い作られた『ワンダフル版』というシリーズと、その画面に見られる特徴をまず大まかに説明していきます。
そもそも『ワンダフル版』の本編尺は1話3~4分程度である点が大きな特徴と言えます。
また、でじこたち三人娘はCMなどを除けばTVに露出するのは初めてであり、他キャラクターたちはアニメで初登場だということも留意したいポイントの一つです。
大半の視聴者は彼女らと「初めまして」の状態であることが予想されるわけですから、同じショートアニメといっても既に人気があるアニメ・コンテンツのスピンオフとして作られる、SDキャラが登場するショートアニメ(『うまゆる』や『BanG Dream! ガルパ☆ピコ』など)とは意識する点が全く異なります。
既にアニメ化された経験がある作品のファン向けに制作されたこうした類いのショートアニメのように、キャラクターや世界観の説明を省くことは出来ません。『ワンダフル版』にとって、視聴者へキャラクターや世界観をしっかりと視聴者に伝達することは、必須事項なのです。
その必須事項を短い尺に落としこむことに貢献したのは『ワンダフル版』の、写実的な景色ではなく、簡略化された景色や図形や線のみで構成される「イメージ背景(イメージBG)」を多用することで「説明と魅力のバランス」を取る演出です。
ただこの演出を理解する為には、アニメにおいて背景美術が果たしている役割を今一度おさらいしておく必要があります。アニメ評論家・藤津亮太氏はアニメの背景美術について、このように論じました。
この一節からも分かるように、アニメーションの背景美術はその作品が持つ世界観を、現実と相対的に比較することで示す「物差し」の役割を持っています。
背景美術が「そのアニメがいかなるリアリティーを基準にして存在するか」……”作品自体の現在地”もしくは”視聴者の生きている世界との距離”を示すということですね。
これは、背景からキャラクターのいる場所を推測する行為と本質的には同じ行為です。私たちは取り立てて意識することもなく、背景から舞台設定を理解します。
背景がビル街ならば「現代の都会」、白い砂浜に海の家やら出店やらが立ち並んでいるならば「海水浴場」というような塩梅で、キャラクターの現在地を推測するのです。
それと同じように、私たちは背景から”作品”もしくは“シーン”の立っている「場所」をも理解しているとは言えないでしょうか?
例えば極端に陰影が強調された背景ならば、私たちはそのシーンについて「シリアス/サスペンス要素の濃いシーンなのではないか?」と推測するでしょう。
『魔法少女まどか☆マギカ』第1話におけるこちらのカットなどはそうした推量を利用する背景美術の好例です。
このカットでは本来ならば日常描写の極地であろう学校のシーンで、敢えて極端に角度のあるらせん階段などが一望できる「非現実的な学校」の背景で画面右側(上手)を占領しています。
現実を舞台にしながらも平穏な日常とはズレがある作品の世界観を、背景美術が的確に伝えてくれていることが分かりますね。
他にも『まどか☆マギカ』から例を挙げるならば、劇団イヌカレーによる魔女空間などもその典型例です。
一般的な日本のTVアニメではそうそう用いられることのない独特のコラージュ技法・切り絵アニメーション風の美術は、魔女空間のあからさまな「異物」感を際立たせるもの。
これらの例に代表される背景美術は、「魔法少女もの」と呼ばれる既存の作品群と一線を画す……そんな『まどマギ』という作品自体の立ち位置を雄弁に語る見事な背景美術だと論じることができます。
私たちは背景美術からキャラクターの存在している場所を推測するのみには留まらず、その作品が現実とどこまで距離を取っている作品か……
はたまた「アニメ」という広大な枠組みの中でいかなる位置にあるものか……そうした情報を無意識のうちに読み取っているのですね。
それを踏まえて考えると、『ワンダフル版』においても当然、こうした背景美術の「作品の現実との距離感を示す」役割は存分に発揮されています。
このカットでは、宇宙空間や秋葉原の街並みはかなり崩されたタッチで描かれています。電気街・秋葉原の風景とは思えないこの更地っぷりも、実際にはあり得ないでしょうね。
このカットひとつとっても、本作の背景美術は写実性を取り立てて重視していないと判断出来ます。
さらに『ワンダフル版』の見せ場となるギャグシーンでは、その非写実的な背景の傾向はより強まっていくのです。
まるでコントのように暗転・明転を表す背景を用いたり、ポップなイメージBGでコミカルさを強調したり……何でもない日常シーンからギャグシーンまでを彩る非写実的な背景美術は、『ワンダフル版』の大きな特徴です。
でじこというキャラクターには突き抜けた虚構性があります。
そんなでじこというキャラクターが初めてTVアニメに登場したのがこの『ワンダフル版』。それを踏まえると、本作の背景美術がいかに的確な仕事を果たしているかは言うまでもありません。
非写実的な背景を大半のシーンで用いることによって、この作品のリアリティーが現実と相対的に遠いことが明確に示されるのです。
リアリティーを特段重視されない非写実的な画面や空間を構成することで、本作の主人公・でじこが持つ突き抜けた「虚構性」は、もはやキャラクターがしゃべり始める前から強調されていると言えるでしょう。
『ワンダフル版』は大半のシーンにおける背景美術を非写実的なフィクションらしい仕上がりに統一することで現実とは隔たりのある世界観の説明を省略し、第1話において重要な「説明と魅力のバランス」を巧みに取り、テンポの良い作品に仕上げています。
またそのような演出は単に作品を心地よいフィルムにするに留まらず、TVアニメデビューする「記号的な萌え要素を持つ」でじこの魅力を伝える、という本作の目標(のひとつ)を達成することにも大きく貢献したのです。
アニメにおける「臨界の萌え」という萌えの形~『ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて』第1話を取り上げて~
『ワンダフル版』というシリーズが非写実的な背景美術を多くの場面で採用したことから、本作の持つ目標のひとつが「記号的な萌え要素を媒介するでじこの魅力を伝える」事にあると判断できる……ここまでこのように書いてきました。
しかし『ワンダフル版』という作品において掲げられた目標のひとつがそうだからと言って、本作やデ・ジ・キャラット(でじこ)というキャラクターの全てが「記号的な萌え」かと言えば、それはハッキリとNOであると論じられるでしょう。
ここで『デ・ジ・キャラット』シリーズのファンブック内に掲載された年表上に記された、とある言葉を引用します。
この文章はでじこが誕生した年のアオリ文として『でじこん』に寄せられたモノですが、極めて鋭くでじこというキャラクターと彼女が関連する作品の性質を指摘している、極めて高い批評性を持った文章ですね。
でじこが生誕した際に与えられたデザインや設定は、確かに彼女を語る際に外すことの出来ないパーソナリティでしょう。
しかしそれはあくまで「でじこ」というキャラクターを構成する多数の「片鱗」、その中でも初期に生まれた1ピースであるというだけ。
でじこというキャラクターはメディアミックスを重ねていく毎にどんどんと新たな側面をオタク達に見せてくれる女の子ですから、特定の「片鱗」にこだわって「でじことは、○○だ!」と結論づけることはナンセンスであると言えます。
確かに『ワンダフル版』というシリーズにおけるでじこは殆どのエピソードで、本作の「極めて短尺である」という事情も相まって、記号的な萌えを強調して描かれました。
さらにこれまで本稿において取り上げた基本的で広く知られるでじこの「片鱗」(キャラクターデザインや語尾など)は、でじこをある種の記号的な「萌え要素」から成る萌えキャラだと語っています。
「デザイン・アニメ演出からもそういった結論が導き出せるのなら、でじこは記号的な萌えを媒介するキャラクターなのでは?」……そうお思いになる方もいるかもしれませんが、それは早とちりというもの。
先ほども書いたように、それが「でじこ」という巨大かつ多様な形式を持つキャラクターの全てではないのです。
でじこを形作る膨大な「片鱗」の中には、でじこが持つ萌えの形は「ネコミミ」や「メイド」といった典型的な「萌え要素」に留まらないものだと声高に語るものも確かに存在します。
それが本稿において取り上げる『ワンダフル版』のエピソード『ホカホカご飯』です。
「ホカホカご飯」論に本格的に入っていく前に、まずは基本情報をおさらいしていきましょう。このエピソードはTVアニメ『ワンダフル版』の第11話として、1999年12月15日に放送されました。
シナリオ・絵コンテを監督である桜井弘明自らが手がけており、全編に渡って洗練された仕上がりの作品。
残念ながらサブスク配信がされておらず、youtube上での公式無料配信も終わってしまった為、少しアクセスしづらくなってしまいましたね。
DVDが500円しないで買えるので、みんな今すぐ買いましょう!
ところで肝心の本編内容ですが、ひとことでまとめれば「異色」……これに尽きます。ではまず公式ガイドブックより、結末までのあらすじを引用します。
夢と現実を行き来し、一抹のさみしさから暖かい幸せへと転換する感情の動きを感じさせる、そんな希有な手触りの萌えアニメ。
『ホカホカご飯』が持つシリーズから浮きかねないような「異色」の存在感は、このエピソードを語る際に外せないファクターです。
その存在感は「令和のデ・ジ・キャラットチャンネル」にて公開されているでじこ×監督の対談において『ホカホカご飯』の名前がでた際に、でじこ自身が「伝説の回だにょ!」と発言している事からもうかがえますね。
桜井監督もこの回について、先ほど挙げた対談上で「制作を助けようと思って、なるべく動かなくて済むやつ(話)っていうので考えた。(そうしたら)意外と印象が強く出てしまった。」と語っており、やはりこの回が一際印象的な作品であるという認識は強いようです。
そして監督のそんな認識通り、このエピソードは他の『ワンダフル版』におけるエピソードとは明確に異なるのです。
これまで述べてきたように『ワンダフル版』では、記号的な萌え要素を持つでじこの魅力を伝えること、それを目標のひとつとして作品の演出スタイルが構成されていました。
非写実的な背景、誇張の効いたコントのような演出の多様などがその好例でしたね。
『ホカホカご飯』はそうしたシリーズに通底するスタイル・美学に対して、真っ向から反旗を翻しました。
これまでのシリーズにおいて貫かれていたでじこというキャラクターの記号的でフィクショナイズされた描かれ方を「フリ」として利用し、むしろ徹底的にキャラクター描写の実在感を高めて描くことで、これまでの記号的な萌え要素から成立する萌えとは異なる萌えを生み出したのです。
では、従来の『ワンダフル版』で見られるような萌えと、異なる形式の萌えとは何か?それは、「完全なまでに虚構性を持つキャラクターが、あくまで作品内で非常に現実らしい空間に臨むことによって生まれる、切なくもありながら温かな萌え」…………そんな萌えの形です。
本稿では以後この「虚構のキャラクターが極度に現実”らしい”世界に臨む」という萌えを、「臨界の萌え」と呼称します。
肝心の『ホカホカご飯』の分析に入っていく前に、まずはこの「臨界の萌え」について、定義などを説明する必要がありますね。
とはいっても「はじめに」で述べたように、「萌え」とはそもそもが各々の感覚から生まれる感情に名前を無理矢理つけた概念。
ですから、どうしてもこれ以降に行っていくアニメ本編の演出分析と比べ、かなり感覚的な話になってしまうでしょう。その点はご容赦ください。
まず「臨界の萌え」の例として挙げたいのは、本稿でも『ワンダフル版』のフォロワーとして名前を挙げた傑作OVA『ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて』の第1話Bパート。
作中で「岡田斗司夫2世」とキレッキレの罵倒を喰らった上、敵に取り憑かれて正気を失ってしまうオタク青年・金田くんの家に、主人公であり萌え美少女の小麦ちゃんがお邪魔しているシーンです。
……どうでしょう?画面構成的な視点というよりも、物語を重視した一ファンの視点となってしまいますが、ため息が口をついてでてしまう程に美しいカットです。
敵に取り憑かれたオタクと、それを救いに来た美少女という相反する存在が同じ空間に居る奇跡、その温かな感動が、一見するだけで伝わってきます。
「好きでここに居るんじゃねーよ」とでも言いたげな小麦ちゃんの表情や雰囲気から、この奇跡が長くは続かないという切なさも。
萌え要素を身に纏いアニメの世界で生きる美少女は、現実には現れようもありません。液晶の中では活き活きと動く彼女らは、ひとたびフィギュアやイラストという形で世界に降り立った時、彼女たちにとって生命そのものにも等しい「動き」を失います。
そんな萌え萌え美少女が、生活感のある空間に、存在している。
たとえ一瞬だったとしても、たとえ未だ画面の中だったとしても、極めて現実に近い空間に存在してくれている。それは、なんと温かいことなのか。
図4のようなカットを見たとき、深夜に液晶の前でひとり孤独にアニメを見ている私たちは、萌え萌え美少女に対して現実の恋愛とも推しとも分類できない温かな愛しさを覚える。
これこそが、「臨界の萌え」です。
現実にアニメの美少女は現れようもない、それでも我々は美少女の存在に救われたい!美少女の居ない世界で、”それでも生きていかざるをえない!” …………そうして魂の琴線に触れ、切なさを伴った温かさをくれるのが「臨界の萌え」なんです。
図4のカットに話を戻してみると、壁の線と机でこれ見よがしにオタクと小麦ちゃんは隔てられていますね。
両者の視線は正反対を向いており、互いに決して交わりようのない角度なのが分かります。
小麦ちゃんは視聴者の方に顔を向け、あくまで「キャラクター」らしく画面を意識しているのに対して、オタクこと金田くんはまるで我々視聴者の現し身のように、画面の更に奥を見つめている点も脱帽です。
こう考えてみると、やはり演出的にもインパクトのあるカットですね。
斬新とまで評することは出来ないかもしれませんが、しっかりと構成された品格あるカットであることには疑いの余地がありません。
まさに「臨界の萌え」を完璧に表現した、究極のカット!
さぁ「臨界の萌え」という概念についてご理解頂いたところで、いよいよ本題の『ホカホカご飯』分析に入っていきましょう。
『ホカホカご飯』はどのようにしてその魅力を獲得したか、どのように「臨界の萌え」を表現しているのか……
主に映像における演出を中心に掘り下げ、シリーズ屈指の異色エピソードを紐解きます。
『ホカホカご飯』分析①~背景美術の変化を読み解く~
これまで何度も述べてきた通り『ホカホカご飯』は明らかに『ワンダフル版』において異質な存在感を持っています。
普段のスラップスティックさを抑えてリアルな描写を志向するこのエピソードは、いわばこれまで放送された全話に反旗を翻すようなエピソードなのです。
その異質さはひとえに、例外的にでじこを「観客の生きている現実と近い距離感にいる存在」として描いている点に凝縮されています。
言い換えるならば、記号的な萌え要素に身を包む浮世離れしたキャラクターを、視聴者の住む現実へと接近させた……とでも形容しましょうか。こうした「現実への接近」が、卓越した「臨界の萌え」描写を産んでいるのです。
まず確認しておくべきなのは、この回が夢を描いたシーンを除いてでじこたちの部屋の中で完結しており、”その結果として”背景美術の密度が高いことでしょう。
先述したように、アニメにおける背景美術は「作品自体の現在地」もしくは「視聴者の生きている現実との距離」を語るという役割を持ちます。
『ワンダフル版』は本来でじこの記号性を強調するため、全編を通して非写実的な背景美術が用いられているのですが、実はほぼ唯一そのスタイルの例外としてかなり描き込まれた背景が用いられるシークエンスが存在します。
それがこちらの「でじこの部屋」。
でじこの部屋は第11話『ホカホカご飯』以外にも、第8話『ビームがでないにゅ…』などで登場しているのですが、先ほど例に挙げた秋葉原の町並み背景などと比べてみると、相対的にかなり写実的に描かれていることが一目瞭然ですね。
がたついた長方形に穴ぼこがあるかのような、デフォルメの効いた描かれ方をしている秋葉原の町並みと比較してみると、障子のシワや壁の傷、計器類や畳に至るまで、しっかりと線が描画されているのが分かります。
背景のイメージのみを伝える『ワンダフル版』に多いデフォルメされた背景とは異なり、その場所に流れる空気やガタが来ているであろう建物の質までもが伝わってくる、実在感が強い背景となっています。
この背景がでじこの部屋を描く際に使われる共通の素材であり、『ホカホカご飯』専用に描かれたものではない以上、シークエンス指定の妙によってエピソードに更なるリアリティーが付与されたという可能性を完全に否定することは出来ません。
しかし演出意図の有無はともかくとして、結果的にこの回はほぼ全編を部屋の中で展開させたことで、これまでは記号的としか認識されてこなかったでじこに「背景美術」というリアリティーを与えることに成功しているのです。
アニメ演出を分析する際、私たちは演出家の意図を汲み取ろうと努力するべきでしょう。
しかし演出家が意図せずして画面に生まれた演出であっても、その演出が効果的でありさえすれば、その偉大さは変わりません。
結果として意図せず生み出された演出であっても、完成した作品にそのような印象が与えられていたのなら、その演出は素晴らしいものとして受け止められるべきです。
アニメ視聴において着目されることは多くないですが、背景美術は画面の多くを占有する重要な要素と言えます。その背景美術が既に写実性によって、このエピソードにおけるでじこの「現実への接近」を雄弁に語っている……
『ホカホカご飯』が印象的である理由のひとつは、背景美術が普段のデフォルメの効いたものと明らかに異なり、生活感と実在感にあふれたリアルさを放っているからなのです。
『ホカホカご飯』分析②~巧みなトラック・アップを読み解く~
またこのエピソードは、でじこが持つ「クズキャラ」という一面的な「萌え要素」(虚構性)をも否定しています。
そうはいってもでじこがいつものようにゲマをいたぶるシーンもあることから、この「クズキャラ」否定という意見は適切ではないと考える方も多いことでしょう。
公式ガイドブックにも記載されているような「狡猾・小生意気・迂闊」な性格は健在じゃないか、というその意見は正しいものと言えます 。
しかしこのエピソードがでじこの一面的な「クズキャラ」性を否定し、クズさすらでじこの「片鱗」にすぎないと表現している……その事実は演出から容易に見て取ることが出来ます。
この回で最も印象的な、頻繁にインサートされる「ホカホカご飯にょ~」のカットと、ラスト直前のぷちこが眠る姿を捉えたカットが符合しているという演出は、萌え要素から成立する典型的なキャラクターとして描かれてきたでじこに新たな「片鱗」を覗かせているという点において、その好例です。
この「ホカホカご飯」カットはこのエピソードのタイトルにも採用されているだけでなく、単独でニコニコ大百科の記事まであるほど人気のあるカット。見たオタク同士で思わず語りたくなるような、かなり印象深いカットですよね。
ここまで印象に残るカットとなっているのには、大きく分けて2つの理由があると考えられます。
第1の理由は、このカットは本編にて細かく形を変えながらも5度リフレインされている(カット番号3・12・16・23・27)為、記憶に残りやすいというもの。
近年テレビを見ているとリズムに乗せて社名や商品名を連呼するタイプの広告が以前にも増して増えてきたように感じますが、こういった広告が印象に残りやすいのと、このカットが印象深いのは、現象として似ています。
いわゆる単純接触効果なのでしょうか。迂闊なことは言えませんが、後述するようにこの作品のメッセージを表わしている大切なカットに対して、視聴者にも好感を持ってもらう……このリフレインにそんな意図が込められている可能性も、ゼロではないのかもしれません。
ともかく印象深さの一端を「反復」が担っていることは、概ね間違いないと言えそうです。
このカットが印象的なもうひとつの理由は、本編中”ほぼ”唯一の「トラック・アップ」(カメラを対象にだんだんと近づけていく撮影法)が用いられたカットだからです。
このエピソードでは、「でじこが夢から覚める際には極度にデフォルメされたキャラクターが描かれたカットへオーバーラップでつないでから覚醒する」……
「寝入る際には原則真っ白の画面にフェードアウトしてから夢へ入っていく」……など、シーンの展開に応じて様々なカットつなぎの工夫が用いられています。
でじこが寝ようにも眠れずハッと飛び起きた際には原則から逸脱し、意図的に唐突な印象のカット繋ぎとする(カット22~24)など、もちろんシーンに応じて細かい変化はあります。
ですがそれらも「基本はこのようにカットを繋ぐ」というルールが確立されていればこそ、可能な演出的工夫。
『ホカホカご飯』は各シーンを基本的には「こう繋ぐ」というルールが確立されている、構築的かつテクニカルなエピソードなのです。
そんなルールの中でも特筆すべきは、カメラを動かす(振る)ことが意図的としか言いようがないほどに避けられていることでしょう。
なんと『ホカホカご飯』を構成する全35カット中、実に27カットがカメラを固定された「FIX」と呼ばれるカットとなっています。
残り8個のFIXでないカットも後述する特別な1カットを除けば、被写体のでじこに対してカメラ自体を回転させながら撮影するロール撮影のカット(カット番号20・21)と「ホカホカご飯」のリフレインのみ。
要は約3分ほどのエピソード全編において、カメラはほとんど動かない固定画角の状態を維持しているのですね。そんな中でカメラがトラック・アップして画面の奥側へと迫っていくカットが、目立たないわけがありません。
『ホカホカご飯』において偏執的なまでに固定されたカット群の中、奥行きを自由に操るこのカットは、我々視聴者の印象に残るべくして印象に残っているのです。
ところで先ほどからこの文章では『ホカホカご飯』におけるトラック・アップの利用について、「ほぼ唯一」だの「後述する1カットを除く」だのと、言い訳を重ねていますね。情けない論考の進め方すぎる!
察している方もいらっしゃると思いますが、実は5度リフレインされる件のカット以外にも、このエピソードにはひとつだけトラック・アップが用いられているカットが存在します。
そしてその特別な1カットこそ、「ホカホカご飯にょ~」カットと符合しているカットとして挙げた、ラスト直前の「ぷちこが眠る姿」カットなのです。
このカットでトラック・アップが用いられている理由については、深読みの余地があるでしょう。まず考えられるのは、その後に続くカット35「ぷちこの夢の中」へ、物語を自然に繋げる効果を狙ったというもの。
夢は各人の頭の中にしか存在しない映像ですから、夢の中の世界とはすなわちそのキャラクターの頭の中にある世界。
現実世界からぷちこの夢の中の世界へ映像がスムーズに遷移していくために、ぷちこの頭へトラック・アップすることで視点の移動を違和感なく見せるという演出は非常に妥当です。
映像のスムーズなコンティニュィティ(継続性)を重視する「古典的ハリウッド映画」様式に則っていますから、映像の王道を行く演出と言えますね。
実際にトラック・アップした後、「ぷちこの夢の中」カットへは真っ白の画面へのフェードアウトを経由して移行していますから、この理由だと筋は通っている。
さらに先述した通り、「ホカホカご飯」においてフェードアウトは寝入って夢を見る際に用いられるカットつなぎですから、夢の中へ入っていくという解釈は最もポピュラーな理解だと考えられます。
しかしこうした理由では、トラック・アップが用いられている理由としては不十分なのです。
そしてここから論じていく第2の理由こそが私が声高に主張したい「ホカホカご飯」におけるトラック・アップの効果であり、でじこが持つ「クズキャラ」という一面的な「萌え要素」(虚構性)をこの回が否定しているという考えを何より裏付けるものです。
その第2の理由とは、それまで「ほかほかご飯にょ~」カットにしか使われていなかったトラック・アップを敢えてぷちこに対して用いることで、「ぷちこ=ホカホカご飯」という構造を示す、というものです。
そもそもこの回において「ホカホカご飯」というモチーフは、でじこにとっての「かけがえなく温かい存在」を示唆しています。
外やゲーマーズでの仕事は寒いから、出来れば出発なんてしたくない。ずっと家の中で、温かい布団にくるまっていたい!
そんなでじこが「仕事」という現実から逃避するようにして見る夢は、ぷちこやうさだと遊んだりお月見をしたりする夢。誰かと過ごす何気ない日々こそ、思わず夢に見てしまうような温かく尊い「ホカホカご飯」なのだ。
そしてそんな日常を守るために、むちゃくちゃなことばかりしているように見えるでじこも、実は現実のみんなと同じように歯磨きや着替えなんかして、今日もゲーマーズへ真面目に働きに出ている……このエピソードは、大まかにそんな解釈が出来ます。
このエピソードが持つそんなメッセージ性が凝縮されているのが、トラック・アップが用いられた「ホカホカご飯」カットであることは疑いようがないでしょう。
様々な夢を展開した後にこのカットがインサートされることで、「ああ、この夢もでじこにとって温かい「ホカホカご飯」だったんだ」と理解できる。
もしこのエピソードが「こんな日常が、でじこにとってのホカホカご飯にょ」なんて語りで終わっていたとしたら、ここまで印象的なエピソードにはなり得なかったはずです。
このエピソードのメッセージ性を映像表現に凝縮し落とし込み、無粋でない形で明快に伝える……「ホカホカご飯」カットは、まさにこのエピソードの印象を映像で決定づけ、言葉で語る以上に視聴者の心へ深く突き刺さる、素晴らしいカットだと断言できます。
しかしこのカットが素晴らしいものであればあるほどに、極端にカメラを固定することにこだわっている『ホカホカご飯』において、このカット以外にトラック・アップを用いるという選択肢は、なかなか選びづらいものです。
なぜならメッセージ性の詰まった件のカットをカットをエピソードの中で唯一トラック・アップが用いられたカットにすることで、固定画角が用いられた他カットと、価値を差別化する事が出来ますから。
トラック・アップをみだりに使っては、伝えたいメッセージを詰めた件のカットは目立たなくなってしまう。
構築的なエピソード内における各カットの力関係を乱さない為にも、迂闊にトラック・アップを採用することはしたくないはずなのです。
ちなみに先ほど挙げた第1の理由、トラック・アップは映像の継続性を重視したスムーズな夢シーンへの繋ぎのためだけに用いられているという考えは、このエピソードにおけるトラック・アップの使用に適切な意味を与えるものとは言えません。
なぜならば、もしそのようにトラック・アップが用いられた場合、それまでのでじこが夢を見るシーンにおいてトラック・アップが用いられていないことに視聴者は違和感を覚えざるを得なくなってしまいます。
オーバーラップやフェードアウト、FIX、ジャンプ・カットといった演出手法を明確に定められた厳格なルールの下で、決められた特定のシチュエーションでのみ用いている構築的な構造の『ホカホカご飯』。
エピソードの根幹を成す夢シーンへの入り方がよもや統一されていない、なんてことは考えにくいです。
つまり「眠るぷちこ」カットにおいて用いられているトラック・アップは、単なるスムーズな場面転換以上の重要な意味を持つ。
そしてその「場面転換以上の重要な意味」こそが、先述した「ぷちことホカホカご飯の同一化」に他ならないと、私は考えます。
でじこにとって、トラック・アップで撮られたホカホカご飯は、「かけがえなく温かい存在」に他ならない。
ならばそれと同じようにトラック・アップで撮られた「ぷちこ」も、でじこにとって「かけがえなく温かい存在」であるということが、この両カットの関係から分かります。
この演出はぷちこというキャラクターがでじこにとっていかに大きな存在であるかを示すと同時に、でじこはただ「狡猾・小生意気・迂闊」なクズキャラであるという、『ワンダフル版』が推し進めた記号性に対して真っ向から反旗を翻すもの。
『ホカホカご飯』というエピソードの特異性を、最も象徴する演出だと論じられるでしょう。
以上のような背景美術の工夫、トラック・アップの効果的な使用といった「記号性」を否定する演出を繊細に積み重ねることで、このエピソードは『ワンダフル版』におけるでじこというキャラクターを、従来のそれよりも格段に現実世界へと接近させることに成功しました。
記号的な萌え要素を身に纏う突飛なデザインでありながらも、記号的な描写を可能な限りそぎ落とされた『ホカホカご飯』におけるでじこは、記号的な萌えだけでなく、「臨界の萌え」をも体現する、屈指の萌えキャラクターなのです。
おわりに~『ホカホカご飯』・でじこが見つめるもの~
1998年7月、ひとつのイラストとして生を受けたデ・ジ・キャラット=でじこ。彼女は「ネコミミ」「メイド服」といった、典型的な萌え要素の組み合わせから生まれるパターン化された萌えのみを媒介するキャラクターだと、長い間考えられてきました。
しかしでじこというキャラクターはアニメ・漫画・ゲームなどなど……
今日からではとても把握しきれないほど、多くのメディアを横断しています。
その横断したメディアの数だけ、形の違う可愛らしい「片鱗」を私たちに見せながら。
そんな数あるでじこの「片鱗」の中でも、TVアニメ『ワンダフル版』第11話『ホカホカご飯』は強烈な存在感を持つ「片鱗」でした。
『ワンダフル版』においても、記号的で強い虚構性を持ったキャラクターとして描かれた、典型的萌えキャラクターとしての「でじこ」像。
それを「ご飯」というモチーフが持つ温かさをリフレインさせることによって、可能な限り現実世界へと接近させた『ホカホカご飯』はまさに、虚構のキャラクターが極度に現実”らしい”世界に臨む「臨界の萌え」をこれ以上なく表現した作品だと結論づけられます。
夢の中にあるご飯の温かさがでじこに温かさを届けたように、でじこという夢のような美少女は画面の中から私たちに新たな萌えの温かさを届けた。
アニメから魂で受け取るそういった萌えの温かさこそ、我々にとってはかけがえのない「ホカホカご飯」だと言えます。
そして「ホカホカご飯』のような稀有な特徴を持つ「片鱗」がでじこというキャラクターに存在することは、でじこが単なる「萌え要素」から成る萌えのみを媒介する萌えキャラクターではないことを、何よりも証明するものなのです。
最後に蛇足として『ホカホカご飯』への私の想いを付け足し、この長い評論を締めようと思います。
本稿において「ぷちこが眠る姿」カットは、『ホカホカご飯』が見せたでじこの新たな「片鱗」を象徴するカットとして例に挙げました。
このカットはもちろん演出が効いていて秀逸ですが、このカットの直前にもまた秀逸なカットが存在します。
それは、でじこが家から出る前にこちらへ振り返るカット。
ただ単に「こちら」といっても、決して画面の前にいる視聴者にその瞳を向けている訳ではありません。でじこの視線の先には知っての通り、彼女にとってかけがえのない「ホカホカご飯」であるぷちこがいるのですから。
気鋭のアニメ監督・若林信はキャラクターが何かを見つめるというモチーフについて、こう語っています。
何を隠そうこのカットを初めて見たときの私も、その例に漏れずでじこの瞳に魅せられてしまったのです。
画面の中から、こちらを見つめるでじこ。その可愛らしい姿は、「今でじこは何を見て、どんなことを考えているんだろう?」という興味を否応なく掻き立てます。
でじこの謎に満ちた何かを見つめる瞳は、当時まだ漫然とアニメを見ていた私へ、アニメーションに隠された「秘密」の存在を示唆したのです。
そこから私は素人なりに映像の勉強を始める訳なのですが、そんな身の上語りは置いておいて。
こうした映像の「秘密」への興味は、あらゆる作品評論を書く最初の一歩となる感情です。
「このアニメは何を描いているんだろう?」と、必死に画面にかじりついて考える。カットの繋ぎや演出法で分からないものがあったら、図書館に通い詰めて調べる。ネットを漁り散らかす。
評論対象がアニメであるというのに画面には目もくれずシナリオだけを注視して論じ、それらしい社会問題との繋がりを指摘してみせるような、芯を食わない評論ではいけないのです。
ただひたすら「なんでこの映像はこんなに自分を惹きつけたのか」を、頭を掻き毟ってモニターの前で考える。移動中も食事中もとにかくアニメのことを考えて、真摯にアニメと向き合う。
でじこの瞳は、私に「映像が織りなす秘密への興味」を授けた元凶のひとつなのです。
そんな元凶と今回逃げずに対峙できたのは、ひとえに『もえけん!!』という緊張感と自由度を併せ持つ素敵な場を提供してくれたnazcaさんを始めとする関係者のみなさんと、読んでくれるであろうあなたのおかげです。
本当に本当に、ありがとうございます。もし良かったら感想ツイートなんて頂けると、非常にうれしいです。
ところで今調べたところ、少なくともネットで調べられる範囲では、『ホカホカご飯』について詳細に分析している文章は見つかりませんでした。
私によるこの評論を勘定に入れたとしても、傑作『ホカホカご飯』が発表されてから、演出面から分析してその魅力を語るまで、のべ20数年の歳月を要した訳です。
いちアニメファンとして、長い間この作品が評論的に語られる対象とならなかったことは、素直に悲しいことです。
しかし私が書いたこの文章によって、まっすぐに画面の向こうを見つめるでじこの瞳が問いかけた『ホカホカご飯』という傑作の秘密、そのまた「片鱗」を少しでも暴けたのなら……
1人の『ワンダフル版』ファンとして、この上なく光栄なことですにょ。
筆・藤吉なかの
この原稿を書くのに不可欠だった皆さんへの感謝……
・萌研主催にして書くきっかけをくれたnazcaくん
・スーパーデザインマン、カピバラくん