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映画『ムーンライト』観てきた

アカデミー賞での前代未聞の受賞者カード取り違え事件で話題になったこの映画、ちょっと遅ればせながら観てきた。ので感想。

以下、ネタバレしてるので見たくない方はご注意を!

今回は映画についてほとんど事前に予習してなくて、ただポスターのアートワークとかからの想像で、かなり精神的にハードな映画を予想して行ったんだけど(←観に行くのが遅くなったのはそのせい。体力あるときじゃないとなーとか思ってて早いタイミングを逃した)、実際に観てみたら、あまりにも純粋でプラトニックな初恋の物語だった。

それは、たとえばPixivの小説とかにありそうなレベルの、ファンタジーと言ってもいいくらいのピュアさ加減で、純愛で涙を流すには少々スレてしまった私は正直、映画が終わってからしばし呆然としてしまった。なんていうか、映画はいい映画なんだけど、私の心がそれをすんなり受け止めるほど清らかじゃないという事実に衝撃を受けたというか…

思うに「黒人のゲイの映画とか無理!」と思って敬遠してるような人ほどハマれるし、この純粋な愛に泣いちゃったりする気がする。

逆に私は、そこそこブロマンスものの映画も観てきてて、その多くはあまりハッピーなエンディングにならない作品だったから、こんなおとぎ話みたいな優しい展開が待ってるとは思ってなかくてただただ戸惑ってしまった。

そして自分のその戸惑いがすごく恥ずかしかった。なんで見る前から、きっとほろ苦い結末なんだろうと決めてかかってたんだろう?って。それこそ差別意識じゃないか。

で、その上で少し落ち着いて、ムーンライトは世間でざっくりと説明されているような同性愛をテーマとするLGBT映画なのか?と考えると、あれは性愛的な意味のゲイ映画ってわけじゃなくて、アメリカの黒人社会の中で、マッチョになりきれない子たちが自分らしく生きることの困難を中心的テーマとする映画なんじゃないか、と思った。主人公の二人が惹かれ合うのは(こう言ってしまうと身も蓋もないかも知れないけど)成り行きに過ぎなかったではないのか、と。

形式上純愛映画のようにも見えるけど、実はそういう恋の入り口にもまだ達してないっていう感じ、恋愛感情というより、孤独な魂がたまたま見つけあった、みたいな感じは、同性の恋愛や駆け引きをメインに捉えた作品とは、どこか違ってた。

シャロンもケヴィンも、オスらしさを装うことでマッチョで残酷な世界でなんとか生きていこうとする。男らしさ、暴力性、筋肉、女の子に対するセックスアピール、いろんな記号でガチガチに武装して。

でも、そういう、ありのままの自分を隠して生きてる子たちが『この人の傍ならば、なんとか自分らしく呼吸できる』という人に紆余曲折を経てやっと辿り着いた、だけどまだ愛は知らない、みたいな幼さが、この映画の独特の清らかさを作ってるんだと思う。

オスの群れの中に居場所を持たない二人が逃げ出した海で出会う。そこに芽生える互いへの感情はまだ愛とか恋と呼べるようなものじゃなく、『生きのびること、ただし一人ぼっちではなく』という人間の切実で普遍的な願いにより強く結びついているんじゃないか。

ブロークバックマウンテン」がアカデミー賞とれなくて「ムーンライト」がとれたのは、去年の「アカデミー賞は真っ白」騒ぎからの棚ぼたというとこも勿論あるだろうけど、それだけでなく、こういう形で教養小説的な要素や性愛を抜きにした普遍的な愛しさの物語のウエイトを大きくして、同性愛がメインテーマという風に見せなかったことが、一部の人にとっては投票しやすかったんじゃないかな…とかも思った。アカデミー賞保守的だし。

そういう意味でも(「わかりやすい」かどうかはともかく)「とっつきやすい」映画ではあると思うので、繰り返すけど「黒人のホモの映画とか無理」と思いこんでる人ほど観に行ったらいいと思う。個人的には暴力表現も性的表現も控えめだと思ったし、これレーティング必要だったかなぁ?っていう程度だった。

んで、ほかの人の感想ないかなと検索してたら「ララランドはすごく楽しく観られて最後は感動もしたけど、ムーンライトはひたすら重かった」っていうブログが出てきてひっくり返った。この二つの映画の感想、正反対だったので…

なんせ私はミュージカルでヒャッハーするんだ!といそいそワクワクとララランド観に行ったら、女はただの甘ったれだし恋愛映画としてもお仕事映画としてもモヤっとする中途半端さでぷんすかして帰ってきて、鬱展開にも耐えるぞ、って謎の覚悟して観に行ったムーンライトでは、予想外にイノセントな愛の物語にスレてしまった心を砕かれ、サイドストーリーでの泳ぎを教えてくれるドラッグの売人とか、毒親との和解エピソードとかもいちいち救われたような気持ちになってたので、ほんと、同じ映画みても感じ方が真逆ってことあるんだなぁ…と思った。

もちろん重たい切ない部分もあるにはある。例えば私がこの映画で感じた最大の切なさは、主人公がマッチョなコミュニティから脱出するために、本来は慣れてないし好きでもない「暴力」という手段を用いて警察のお世話にならなければならなかった、ということだった。

このことを実際にマッチョでホモソーシャルなコミュニティに生きる人たちがどう感じたのか、聞いてみたい気がする。自分が死ぬか人を傷つけるかしかない世界ってどうなの、って。逃げ出したくならないの、って。

でも二人は死なずに生きて大人になっている。筋肉の殻で自分を覆った大人のシャロン。少年時代から繰り返しシャロンに手を差し伸べながら、その都度自分の弱さから周囲に迎合することを選び、シャロンの手を離してしまったケヴィン。

第三部でシャロンに3度目に手を差し伸べたケヴィンは、果たして今度こそ逃げ出さない強さを得たのだろうか。ケヴィンに会いにきたシャロンは、この先クスリの売人稼業から足を洗って、ありのままの自分でいることを選べるのだろうか。映画はそこの葛藤までを描かずに終わる。

リアリティを考えれば茨の道だし、結局一夜が明ければ何事もなかったかのように二人は別れて、それぞれが別の町で「タフな」オスの仮面を被って生きていくのかも知れない。私が映画館に行く前に予想してた映画はそういう映画だった。

でも、「ついに王子様がシンデレラを見つけた」みたいなこのラストで映画を終わらせたムーンライトの監督、バリー・ジェンキンズは、おとぎ話の続きのような優しい世界を、希望を、描きたかったんじゃないかなぁ、とも思う。ケヴィンは偶然ではなく自分の意思でシャロンに電話をかけたのだし、シャロンは自分の意思でケヴィンに会いに行ったのだから。

映画「ブロークバックマウンテン」では、マッチョでホモソーシャルなカウボーイの世界の「外」であり楽園だったブロークバックマウンテンを出た二人は別の道を歩み、一人は同性愛差別者に殺され、もう一人はその面影をクローゼットの中に隠し続けたまま世捨て人として生きていく、という救いのない顛末が描かれる。

あれが作品賞候補になってから12年、このムーンライトという映画でやっと、曖昧ながらも二つの魂の出会いと、ありのままの自分として生きる希望へのほのめかしが、ハリウッド映画でもやっと描かれるようになったんだな、って思うと、黒人監督云々の要素を抜きにしても画期的な受賞なんだなと思う。長かったよなぁ…

そこを考えると、この映画のエンディングからさらに先の優しい未来の物語がハリウッドで普通に描かれるようになるまでには、もしかするとまた新たに12年ぐらいの時間がかかっちゃうのかもしれない。

でも、できればもう少し早くそういう風になるといいなと思うし、この映画がトランプ政権へのカウンターで受賞したーみたいな目だけで見られるんじゃなくて、観た人にちゃんと中身を評価されるといいなぁと思う。敬遠してる人が、先入観抜きで観てくれるといいなぁ。

#ムーンライト #映画 #ブロマンス #ブロークバックマウンテン

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