ダダ漏れている文章が好き。
今年の正月休みは土日がかかっていたこともあって、やたらと短く感じた。仕事の休みがカレンダー通りで、とくに美味しいことは何もないのがわかっていたので、今年は旅行や観劇の予定も入れず、大掃除は見て見ぬ振りを決め込んでいた息子の部屋についに手をつけただけで終わった、いや終わらなかった。着手したというだけでしたはい。いつ終わるのかわからんです…orz でも、部屋の住民がいないので、意外と早く片付きそうでもある。
話がズレました。
2017年のお出かけ記録を振り返って年内にまとめよう、という気持ちはあるにはあったのですが、12月最後の日に渋谷行きの電車に乗ってる間に、ふっとそれもバカバカしくなってしまい、まいっかー、と年内更新をやめてしまったんですね。お陰で大晦日は実家の母とちびちびお酒を飲み、お正月も学研「大人の科学」の付録組み立てたりしながら、まったりと過ごせました。
私は正月生まれなので、年が改まるとともに、ひとつ歳をとります。そこの区切りがはっきりしているせいもあって、物心ついてから、年の終わりには別に人から言われなくても一年間をなんとなく反省し、来年の目標をたてるようなルーチンで生きてきました。
でも、そういうのを卒業してもいいような気がしてきたんですよね。特に理由やきっかけはないけど、強いて言えばとりあえず準備不足でも思いついたら手をつけることの大事さとか、無理せず時が満ちるまで寝かせておくことの大切さを感じるようになったからかな。ぱっと見相反するようだけど、これは本質的には同じことで。
例えば私は完璧主義者ではないんだけど、できれば文章なんかはTwitterのつぶやき程度でもポストする前に一度推敲し、人からつまらないツッコミをされないようにしておきたいなぁ、という気持ちは心の中にはある。ものを書くのは好きなので、雑なのは嫌なんですね。
だけど、自分が読んでて楽しかったり惹かれたりするのは、体裁の整った隙のない文じゃなくて、緻密なようでオチが乱暴なぶった切りだとか、意識の流れそのもののように話題がフラフラしてるとか、どちらかといえば“欠点のある”文章のほうだったりするんです。
マニュアルに沿って、他所からのパクり記事にくどい中見出しつけて並べるスタイルの薄っぺらい情報アフィリエイト・サイトの記事作成のバイトが世の中には溢れているようで、ちょっとものを調べようとすると、その手のゴミ記事にばかり行き当たり辟易することが多いのですが、そういう「猿でもできる」系の小遣い稼ぎは、この先どんどんAIに地位を奪われて行くんだろうなと思う。
だけど、“欠点=味”のある文体をAIがものにするのは、まだもう少し先のことだろうと思います。機械は平均化作業は得意だけど、本質的な踏み外しは苦手だから。なので、あえてそういう文体で書いていくのもいいかなぁ、と思ったりもしてるわけです。(←嘘です。こじつけです。)
これは、大学で論文書いたりビジネス文書をまとめるときには許されない文体だし、カルチャーセンターの文章教室なんかでもたぶん添削されるような書き方だけど、破格・破調が、なぜそれでも“人間になら”通じるのだろうか?というのは、面白い設問なんだと思う。ここ深掘りする気力は今んとこないけど。
話を戻すと、要するに「抜かりなく準備できてなくても気が向いたら始める」「2割のアラがあってもアウトプットを晒す」ということがしたくなってきたのですね。基本的には事前にしっかり起こりうることに備えておくのは効率的だし美しいよなとは思うんだけど、寄り道しつつショートカットみたいな、やったことのないやりかたをモノにしてみたいというか。
これは「書くこと」に限らず、自分の生活のいろんな層で、同じようにやってみたいなぁと思う。しっかり準備した、こうすれば間違いない、と思っても想定外の事態は起きるものだから。だったら、失敗しない能力より、いつでもやり直せる力を伸ばすほうが楽しめる。これは経験上そう思う。年の功です。
あれ、なんか今年の目標みたいになってきたな。でも途中で気を変えるかも知れないので、そういう前提で放流しておきます。最近のネットの話題を見てると思うんだけど、みんな変わることとか間違えることに対して、あれこれうるさすぎ。変わんなきゃ人類の進化なんてないんだし、間違えたら謝ってやり直しゃいいのですよ。だが俺は謝らない!頑固一徹!みたいなの、だーれも得しないから。
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