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和樂webで掲載~高峰譲吉の交遊関係

科学実業家の高峰譲吉。実は、交友関係がすごく広いのです。


<大隈重信> 少年時代長崎に留学していたころ、佐賀藩の藩校「到遠館」(ちえんかん)で学びました。ここで、現代の副校長に相当する立場で勤務していたのが、内閣総理大臣大隈重信。「高峰譲吉に英語を教えたのは、私だ!」と後年(鼻高々で?)言っていたそうです。

<高橋是清> 譲吉の社会人のスタートは、農商務省工務局。ここで特許行政に関わります。初代特許局長は、内閣総理大臣や大蔵大臣を務めた高橋是清。その下で、譲吉は働きのちに「特許の父」と呼ばれる高橋を支えたのでした。譲吉の働きぶりからすると、彼も「特許の父」と呼ばれてもいいと思いますが。

<渋沢栄一> 譲吉が化学肥料会社を起こそうとしたとき、協力したのが日本資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一。農家出身の彼は、譲吉の考えに賛同。

渡米した譲吉と日米友好関係に大いに尽力。その他理化学研究所を共に作り、高岡(市)にアルミニウム産業を起こす際、神通川(じんづうかわ)に発電所を作る計画に力を発揮したのも渋沢。


譲吉が亡くなったとき日本での追悼会での委員長も務めたのでした。

<北里柴三郎> 日露戦争の際、アメリカ人に日本のことを知ってもらおうとした譲吉。新聞に「日本の科学分野での発達」をテーマに新聞に寄稿したのですが、このとき細菌学者で医師の北里柴三郎についても紹介しました。

ここからは記事で触れていなくて、私が過去記事にした人物を。


<後藤新平> アルミニウム産業を起こすために、渋沢栄一の力を借りたことは、先に書きました。それ以前に東京市長などを務めた後藤新平に、神通川の水利利用をお願いする手紙を出していました。


<田中舘愛橘> 譲吉の日本での追悼式には多くの科学者が参列しましたが、物理学者田中舘愛橘もその一人でした。


すごい交友関係ですね。私も過去に記事にした人物とつながるなんて、驚きでした。

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