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亡き母の戦争のトラウマ

大学で日本近現代史を専攻していた私。これ選んだ理由はいろいろあるのですが、一つ理由を挙げると、戦争について知りたかったから。

ビビりで怖がりの私が、なぜそう思ったのか。亡くなった母の影響もあるのではと、最近考えます。

終戦の翌年に生まれた母。空襲の恐ろしさは知らないけれど、幼少期はみんなが貧しくて食べるのに必死な時代だったそうです。

小学校のある夏休み。母と妹とでデパートのレストランでお昼を食べた後、同じフロアで広島平和記念資料館のパネル展示がされていたのに気づいた母。有無を言わさず、私たちをそこに連れて行きました。

正直、嫌でした。白黒だけど怖かったし。ふと、母を見ると目に涙をためていました。このときの表情が忘れられませんでした(実際は、ドン引き)。
そこまで母を悲しい気持ちにさせた戦争って、何なんだろう。それが私の原点かもしれません。

小学6年生になると、社会科で歴史を学び、国語で壺井栄さんの『石臼の歌』(原爆投下を扱ったお話)を習い、少しずつ戦争への理解を深めました。

この年は1985年、終戦から40年が経っていました。たまたま見たテレビで、終戦特集をやっていてアナウンサーが「もしかしたら、戦後50年は迎えられないかもしれません」といいました。戦争を経験した人は年を取っていき、もちろん亡くなっていく人もいる。そのとき、こう感じたことを今でも覚えています。

同じ6年生のお正月。家族旅行で、広島に行くことになりました。で、広島平和記念資料館に行くと言い出す母。「わ~、楽しみ!」とならない私たち。当然です。
平和公園に入り、広島平和記念資料館へ。しかし、そこには閉館の看板が。この日は12月31日。公共機関は当然閉館していますよね。

ずっと後で聞くと、母は私たちに見せなくてはと思いつつ、自分が見るのが怖くて仕方なかったよう。だから、閉館でホッとしたとのこと。
「閉館なの知ってたんちゃうん?」、意地悪な気持ちも出てきましたが、母が一生懸命考えていた気持ちも分かるから何も言いませんでした。

これは私の想像ですが、母は幼いころに大人に戦争の悲惨さを(無理やり)聞かせられたのではないでしょうか。そのあたりは聞けないまま、母が亡くなったのは残念ですが。

この後中学高校と進むにつれて「歴史オタク」になっていく私ですが、戦争についても怖がらずに正しく調べたいと思うようになり、大学で近現代史を専攻することになるのです。

今回この記事を書いて、母の戦争へのトラウマが私を「戦争を正しく知りたい。どんな形であれ、人に伝えたい」という想いにさせたのだと実感しました。

以前は、戦争を体験していないどころか、終戦から約30年経って生まれた私に語る経験はないと思っていました。でも、そのうち戦争を体験した人はいなくなるから、間接的にしか知らなくても伝えていくことは大切だと思います。

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