見出し画像

アート的技法を読む "傲慢と善良2/3"

傲慢と善良から少し離れて…

 昨日までは、辻村深月さんの著書「傲慢と善良」について、その内容にも少し触れながら現代人の婚活や社会構造における傲慢さ、人間それ自体が持つ傲慢さについて考えさせられる、辻村さんの鋭い洞察を取り上げてきました。今日は視点を変えて、小説の構造自体が持つ面白さについても取り上げ、辻村さんの文章が如何に人を惹きつけるかについて考えていきます。

    <<<<<<<<<<   ここから一部ネタバレも含みますのでご注意ください   >>>>>>>>>>

二重の視点構造_架と真実の交差する物語

 「傲慢と善良」の物語構造の特徴として、まず挙げられるのが二重の視点構造です。主人公である西沢架と坂庭真実、この二人の視点を交互に描くことで、辻村深月さんは複雑な物語世界を構築しています。

架の視点からは、婚約者の失踪という衝撃的な出来事とそれに続く探索の過程が描かれます。一方、"真実(mami)"の視点からは、彼女の過去や内面の葛藤、そして失踪に至る経緯が明らかにされていきます。この二つの視点が交錯することで、読者は物語の全体像を徐々に把握していくことになります。

この手法は、単に物語を面白くするだけでなく、「傲慢」と「善良」という本作のテーマを浮き彫りにする上でも重要な役割を果たしているとは考えられないでしょうか。例えば、架が自分の行動を「善良」だと信じている場面を、真実の視点から見ることで、その行動の裏に潜む「傲慢さ」が明らかになります。逆に、"真実"が「善良」を装って行動している場面を、架の視点から見ることで、その行動の不自然さや違和感が浮かび上がってきます。

文学批評家のウェイン・C・ブース(Wayne C. Booth)は、その著書『フィクションの修辞学』(1961)で、視点の選択が物語の解釈に大きな影響を与えると指摘しています。

「語り手の選択は、作者が読者に伝えたいメッセージを決定づける最も重要な要素の一つである」

『フィクションの修辞学』(1961)

辻村さんは、この二重の視点構造を巧みに利用して、登場人物の内面の複雑さと、彼らを取り巻く社会の多層性を描き出すことに成功しています。

さらに、この二重の視点構造は、読者に能動的な読書体験を促すという効果もあります。架と"真実"、それぞれの視点から描かれる出来事や心情を、読者自身が頭の中で繋ぎ合わせ、解釈していく必要があるからです。このプロセスを通じて、読者は物語世界により深く入り込み、登場人物たちの心情により強く共感することができるのです。

また、この構造は物語に一種の緊張感をもたらします。架の視点からは真実の失踪の謎を追う展開が、真実の視点からはその謎が明かされていく展開が、交互に描かれることで、読者は常に「次はどうなるのか」という期待感を持って読み進めることができるのはまさにミステリーにも分類されるような文章の書き方でしょう。

架と"真実"、それぞれの視点から描かれる同じ出来事や状況が、全く異なる印象を与えることがあります。この「ずれ」こそが、人間の認識の主観性や、「傲慢」と「善良」の境界線の曖昧さを浮き彫りにしていると私は捉えましたが、実際に読んでみた皆さんはどのように感じられたでしょうか。

このように二重の視点構造は単なる物語技法にとどまらず、本作のテーマを深化させ、読者に新たな視点を提供する重要な役割を果たしていると考えられるでしょう。非常に秀逸な表現です。

時間の操作_過去と現在の交錯

 「傲慢と善良」におけるもう一つの重要な文学的技法は、時間の操作です。物語は現在の出来事を軸としながらも、頻繁に違和感なく過去の出来事が挿入されます。この時間の往復が、物語に奥行きを与え、登場人物たちの行動の背景や心理をより深く理解することを可能にしています。

特に注目すべきは、過去の出来事が単なる回想として描かれるのではなく、現在の出来事と密接に関連づけられている点です。例えば、架が"真実"を探す過程で遭遇する様々な状況が、彼の過去の経験と重ね合わされて描かれます。これにより、架の行動の動機や心理的背景がより鮮明に浮かび上がってくるのでしょう。

同様に、"真実"の視点からの語りでも、現在の彼女の状況と過去の経験が巧みに織り交ぜられています。彼女の失踪の理由や、「善良」を装う行動の背景が、過去の出来事との関連で徐々に明らかにされていきます。

この時間の操作は、単に物語を複雑にするためだけのものではありません。それは人間の記憶と自己認識の不確かさを表現する重要な技法となっています。

哲学者のポール・リクール(Paul Ricoeur)は、その著書『時間と物語』(1983-1985)で、物語における時間の扱いについて以下のように論じています。

「物語における時間の再構成は、人間の経験と自己理解の本質を反映している。過去の出来事は、現在の視点から常に再解釈され、再構築されるのである」

『時間と物語』(1983-1985)

辻村さんは、架と"真実"の記憶を通じて、このような人間の経験と自己理解の複雑さを描き出しています。過去の出来事が現在の視点から再解釈される過程は、彼らの自己認識の変化と成長を表現する重要な要素となっているのです。

例えば、架が過去の恋愛経験を思い出す場面があります。その記憶は、現在の彼の状況によって色づけされ、新たな意味を持つものとして描かれます。同様に、真実が自分の家族との関係を振り返る場面でも、現在の彼女の視点が過去の出来事の解釈に大きな影響を与えています。

先程と同様に、このような時間の操作が「傲慢」と「善良」というテーマとも密接に関連しているとも考えられるでしょう。人は過去の経験を現在の視点から解釈し直すことで、自分の行動を正当化したり、あるいは反省したりします。その過程で、「傲慢」と「善良」の境界線が曖昧になったり、時には完全に逆転したりすることもあるのです。

さらに、この時間の操作は物語に一種の謎解き的な要素をもたらしています。現在の出来事の背景にある過去の真相が、徐々に明らかになっていく過程は、読者を物語世界に引き込む重要な要素となっています。

また、この技法は登場人物たちの成長や変化を効果的に描き出すことにも寄与しています。過去と現在を行き来することで、彼らの内面の変化や価値観の変遷が、より立体的に描かれているのではないでしょうか。

象徴的な名前と空間_意味を重ねる仕掛け

 これも推察(あまりに意味を持たせすぎてるかもしれません…)に過ぎませんが、辻村深月さんは登場人物の名前や物語の舞台となる空間に、象徴的な意味を持たせています。これらの要素は、単なる物語の装飾ではなく、作品のテーマや登場人物の特性を深化させる重要な役割を果たしています。

まず、主人公たちの名前に注目してみましょう。西沢架(にしざわ・かける)という名前は、「架ける」という動詞を想起させます。これは、人と人との関係を「架ける」という意味を持つと同時に、過去と現在を「架ける」という物語の構造をも暗示しています。一方、坂庭真実(さかにわ・まみ)という名前は、「真実」という言葉そのものを含んでいます。しかし、皮肉なことに彼女は物語の中で「嘘」をつき続けています。この名前と行動のギャップが、彼女の内面の葛藤をより鮮明に浮かび上がらせているのです。

文学理論家のロラン・バルト(Roland Barthes)は、その著書『S/Z』(1970)で、文学作品における名前の重要性について次のように述べています。

「固有名詞は、それ自体が一つの記号体系であり、作品の解釈に重要な手がかりを与える」

『S/Z』(1970)

辻村さんは、このような名前の象徴性を巧みに利用して、登場人物の性格や役割、そして物語のテーマを暗示していると考えるのも面白いのではないでしょうか。

次に、物語の舞台となる空間にも注目してみましょう。例えば、架と"真実"が出会った婚活パーティーの会場は、現代の結婚観や人間関係の表層性を象徴する空間として描かれています。また、"真実"が失踪後に滞在していた被災地は、彼女の内面の「崩壊」と「再生」を象徴する空間として機能しています。

さらに、架の職場や"真実"の実家など、日常的な空間も重要な意味を持っています。これらの空間は、登場人物たちを取り巻く社会的環境や価値観を象徴的に表現しており、彼らの行動や心理に大きな影響を与えています。

このような空間の象徴性は、物語のテーマをより深く掘り下げる役割を果たしています。例えば、都市と地方の対比は、現代社会における価値観の多様性や、個人と社会の関係性の変化を象徴的に表現しています。

また、これらの象徴的な要素は、物語に重層的な意味を与えています。表面的なストーリーの裏に、より深い意味や解釈の可能性を秘めているのです。これにより、読者はただ物語を追うだけでなく、その背後にある意味を探る楽しみも得ることができます。

さらに、これらの象徴的な要素は、物語世界の現実性を高める効果も持っています。現実の世界でも、人々は名前や空間に様々な意味を見出し、それらに影響されながら生きています。辻村深月さんは、この人間の認識の特性を巧みに利用して、より説得力のある物語世界を構築していると考えてみると、更に「傲慢と善良」という小説の面白みを感じることができるのではないでしょうか。

技法に裏付けられるアート的行為

 今日は文学的技法を通じて、「傲慢と善良」は単なる恋愛小説やミステリー小説の枠を超えた、深い洞察と豊かな解釈の可能性を秘めた作品となっていることを考察してきました。辻村深月さんの繊細な筆致と鋭い洞察力が、現代日本社会の縮図としての物語を生み出していると考えると、もはやそれは現代アート的な手法とも言えるのではないでしょうか。

AIが描くアートやAIが書く小説が当たり前に世の中に溢れてきた昨今ですが、こうした技法の小説を読むと人間の創造力の素晴らしさに驚かされるばかりです。


 私たちが行なっているコーチングやオープンダイアローグも人間ならではの行為として尊重しているものです。そこにはAIを活用させる開発もありますが、一方で人間らしさとは何かを常に問い続ける行為も含んでいます。コーチングに限らず、本についての対話をしたい方も是非お待ちしております。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?