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資本主義の「すきま」を埋める倫理学 3/3「世界は贈与でできている」

格差社会における贈与の役割

 今日でいよいよ「世界は贈与でできている」を締め括っていきます。昨日はテクノロジーという視点からの贈与を捉えましたが、今日はより具体的に現代社会における贈与論を考察していきます。

現代社会において、経済的格差の拡大は深刻な問題となっています。このような状況下で、贈与はどのような役割を果たすことができるでしょうか。

フランスの経済学者トマ・ピケティ(1971-)は、その著書『21世紀の資本』(2013)において、資本主義社会における富の集中と格差の拡大を指摘しました。ピケティは次のように述べています。

「資本収益率が経済成長率を上回る傾向にあり、これが格差拡大の主要因となっている。」

トマ・ピケティ『21世紀の資本』

ピケティの分析は、市場メカニズムのみでは格差の是正が困難であることを示唆しています。このような状況下で、贈与は格差是正のための一つの手段となる可能性があります。

例えば、フィランソロピーや社会貢献活動は、富裕層から社会の他の層への実質的な贈与と捉えることができます。アメリカの大富豪ウォーレン・バフェット(1930-)は、自身の資産の大部分を慈善事業に寄付することを表明し、次のように述べています。

「私は、社会から受け取った以上のものを社会に還元したいと考えています。」

ウォーレン・バフェット

バフェットの言葉は、贈与が社会的公正の実現に寄与する可能性を示唆しています。しかし、フィランソロピーには批判的な見方もあります。スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェク(1949-)は、次のように警告しています。

「資本主義的慈善活動は、システムの根本的な問題を隠蔽し、真の解決を妨げる危険性がある。」

スラヴォイ・ジジェク

ジジェクの指摘は、贈与が構造的な問題の解決ではなく、一時的な対症療法に終わる可能性を示唆しています。

この文脈において、近内悠太氏の贈与論は重要な示唆を与えています。近内氏は、贈与を単なる物質的な移転ではなく、社会的関係性の構築と維持の機能を持つものとして捉えています。この視点に立てば、格差社会における贈与の役割は、単なる富の再分配にとどまらず、社会的紐帯の再構築や相互扶助の精神の涵養にあると考えることができます。

環境問題と贈与の倫理

 環境問題は現代社会が直面する最も深刻な課題の一つです。この問題に対して、贈与の概念はどのような洞察を提供できるでしょうか。

環境倫理学の先駆者の一人であるアルド・レオポルド(1887-1948)は、「土地倫理」という概念を提唱しました。レオポルドは次のように述べています。

「土地倫理は、人間のコミュニティの範囲を、土壌、水、植物、動物、つまり集合的に土地と呼ばれるものにまで拡大する。」

アルド・レオポルド

レオポルドの洞察は、人間と自然環境との関係を、一方的な搾取ではなく、相互的な贈与の関係として捉え直す可能性を示唆しています。

この文脈において、「未来世代への贈与」という概念が重要になります。ドイツの哲学者ハンス・ヨナス(1903-1993)は、その著書『責任という原理』(1979)において、未来世代に対する現代人の責任を強調しました。ヨナスは次のように述べています。

「あなたの行為の結果が、地球上の真に人間的な生活の永続性と調和するようにせよ。」

ハンス・ヨナス『責任という原理』

ヨナスの倫理学は、環境保護を未来世代への贈与として捉える視点を提供しています。

近内氏の贈与論は、この環境倫理の文脈においても重要な示唆を与えています。近内氏が強調する「贈与のプレヒストリー」、つまり私たちが常に誰かから何かを受け取っているという認識は、自然環境からの恩恵を贈与として捉え直す可能性を示唆しています。

この視点に立てば、環境保護活動は単なる資源管理ではなく、自然からの贈与に対する返礼として理解することができます。これは、環境問題に対する新たな倫理的アプローチを提供する可能性があります。

グローバル化時代の贈与

 グローバル化の進展は、贈与の概念と実践にも大きな影響を与えています。国境を越えた人々の移動や情報の流通は、贈与のグローバルなネットワークを形成する可能性を秘めています。

社会学者のアルジュン・アパデュライ(1949-)は、グローバル化時代の文化の流れを「エスノスケープ」「メディアスケープ」「テクノスケープ」「ファイナンススケープ」「イデオスケープ」という5つの「スケープ」(景観)で説明しています。アパデュライは次のように述べています。

「これらのスケープは、グローバルな文化の流れの構成要素であり、人々の想像力に働きかける。」

アルジュン・アパデュライ

アパデュライの理論は、グローバル化時代の贈与が、物質的なものだけでなく、文化や情報、イデオロギーなども含む多様な形態を取ることを示唆しています。

このようなグローバルな贈与の例として、国際的な援助活動や文化交流プログラムを挙げることができます。しかし、これらのグローバルな贈与には課題も存在します。例えば、文化人類学者のマーシャル・サーリンズ(1930-2021)は、西洋諸国による開発援助を「帝国主義的贈与」として批判しました。サーリンズは次のように述べています。

「贈与は、受け手に対する贈り手の優位性を確立し、維持する手段となりうる。」

マーシャル・サーリンズ

サーリンズの指摘は、グローバルな贈与が権力関係の構築や維持に利用される可能性を示唆しています。

この文脈において、近内氏の贈与論は重要な視点を提供しています。近内氏が強調する「贈与の応答性」、つまり贈与が相互的な関係性の中で意味を持つという認識は、グローバルな贈与のあり方を再考する上で重要です。

この視点に立てば、真のグローバルな贈与は、一方的な施しではなく、互いの文化や価値観を尊重し合う相互的な関係性の中で実現されるべきものだと言えるでしょう。

デジタル時代の贈与と人間関係

 昨日も触れた通り、デジタル技術の発展は、人々のコミュニケーションのあり方を大きく変容させ、それに伴い贈与の形態も変化しています。ソーシャルメディアにおける「いいね」や「シェア」、クラウドファンディングなど、デジタル空間における新たな贈与の形態が生まれています。

メディア理論家のマーシャル・マクルーハン(1911-1980)は、その著書『メディア論』(1964)において、「メディアはメッセージである」という有名な命題を提示しました。マクルーハンの洞察は、デジタルメディアそのものが贈与の性質を変容させる可能性を示唆しています。

「ソーシャルメディアは、人々の社会関係資本を構築・維持するための新たなツールとなっている。」

マーシャル・マクルーハン『メディア論』

ボイドの指摘は、デジタル空間における贈与が、社会的関係性の構築と維持に重要な役割を果たしていることを示唆しています。

しかし、デジタル贈与には課題も存在します。心理学者のシェリー・タークル(1948-)は、その著書『一緒にいてもスマホ』(2015)において、デジタルコミュニケーションが人々の対面的な関係性を希薄化させる危険性を指摘しています。タークルは次のように述べています。

「テクノロジーは、私たちにより多くのコミュニケーションの機会を提供しますが、同時により深い孤独をもたらす可能性があります。」

シェリー・タークル『一緒にいてもスマホ』

タークルの警告は、デジタル贈与が真の人間関係の構築につながらない可能性を示唆しています。

この文脈において、近内氏の贈与論は重要な示唆を与えています。近内氏が強調する「贈与の身体性」、つまり贈与が物理的な接触や対面的なコミュニケーションを通じて意味を持つという認識は、デジタル贈与のあり方を再考する上で重要です。

この視点に立てば、デジタル時代における真の贈与は、単なる情報の交換ではなく、オンラインとオフラインの適切なバランスの中で実現されるべきものだと言えるでしょう。こうした情報交換に留まらない贈与を感じたことはあるでしょうか。

贈与と公共性の再構築

 現代社会において、公共性の衰退が指摘されています。市場原理の浸透や個人主義の台頭により、共同体の紐帯が弱まり、公共的な価値の共有が困難になっています。このような状況下で、贈与は公共性の再構築にどのように寄与できるでしょうか。

政治哲学者のハンナ・アーレント(1906-1975)は、その著書『人間の条件』(1958)において、「公共圏」の重要性を強調しました。アーレントは次のように述べています。

「公共圏は、人々が互いに現れ出て、言葉と行為を通じて自らを示す空間である。」

ハンナ・アーレント『人間の条件』

アーレントの洞察は、贈与が公共圏を形成・維持する重要な要素となりうることを示唆しています。

この文脈において、近内氏の贈与論は重要な視点を提供しています。近内氏が強調する「贈与の循環性」、つまり贈与が社会全体を循環し、人々を結びつける力を持つという認識は、公共性の再構築を考える上で重要です。

この視点に立てば、贈与は単なる個人間の行為ではなく、社会全体の公共性を形成・維持する重要な原理として捉えることができます。例えば、ボランティア活動やコミュニティガーデンの取り組みなどは、贈与を通じた公共性の再構築の試みと見ることができるでしょう。

資本主義の「すきま」を埋める倫理学

 3日間に渡り、近内悠太氏の『世界は贈与でできている』を軸に、現代社会における贈与の意義と課題について多角的に考察してきました。

格差社会における贈与の役割、環境問題と贈与の倫理、グローバル化時代の贈与、デジタル時代の贈与と人間関係、そして贈与と公共性の再構築という五つの観点から、贈与が現代社会の諸問題に対してどのような示唆を与えうるかを検討しました。

これらの考察を通じて明らかになったのは、贈与が単なる物質的な移転や経済的な行為を超えた、社会関係性の構築と維持、倫理的価値の実現、公共性の形成など、多様な機能を持つということではないでしょうか。

近内氏の贈与論は、これらの多様な側面を包括的に捉え、現代社会における贈与の可能性と課題を浮き彫りにしています。特に、贈与の「プレヒストリー」「応答性」「身体性」「循環性」といった概念は、贈与を通じた社会変革の可能性を示唆しています。

しかし同時に、贈与の実践には多くの課題も存在します。格差是正のための贈与が構造的問題を隠蔽する危険性、環境問題に対する贈与的アプローチの限界、グローバルな贈与に内在する権力関係、デジタル贈与がもたらす人間関係の希薄化、公共性の再構築における贈与の役割の不確実性など、これらの課題に対する慎重な考察と実践が求められています。

近内氏の『世界は贈与でできている』は、このような贈与の可能性と課題を包括的に捉え、我々に新たな社会のビジョンを提示しています。それは、市場原理や効率性のみを追求するのではなく、人々の関係性や倫理的価値を中心に据えた社会の構想です。それには我々一人一人が日常生活の中で贈与の意義を再認識し、実践していくことが重要です。それは、単に物やお金を与えることではなく、他者との関係性の中で自己を開き、互いの存在を認め合うことから始まります。

同時に、社会システムのレベルでも、贈与の原理を取り入れた制度設計が求められるでしょう。例えば、ベーシックインカムのような普遍的な社会保障制度や、コモンズ(共有資源)の管理システム、さらには教育や医療におけるケアの実践など、様々な領域で贈与の原理を応用することが可能です。

しかし、これらの変革は容易ではありません。市場原理や個人主義が深く浸透した現代社会において、贈与の原理を中心に据えた社会システムを構築することには多くの障害があります。それでも、気候変動や格差の拡大、人間関係の希薄化といった現代社会の諸問題に直面する中で、贈与の原理に基づく社会の再構築は、我々が真剣に検討すべき選択肢の一つとなっているのです。

贈与とは何か、その前に。

 最後に、近内氏の贈与論が我々に投げかけている根本的な問いについて触れておきたいと思います。それは、「人間とは何か」「社会とは何か」という問いです。贈与の原理は、人間を単なる合理的な経済主体としてではなく、他者との関係性の中で生きる存在として捉え直すことを要求します。また、社会を単なる個人の集合体としてではなく、贈与のネットワークによって形成される有機的な全体として理解することを促します。

このような人間観・社会観の転換は、現代社会が直面する様々な問題に対する新たなアプローチを可能にするかもしれません。例えば、経済成長至上主義からの脱却、Well-being(幸福)を中心とした社会政策の立案、コミュニティの再生、環境との共生など、贈与の原理に基づく思考は、これらの課題に対する斬新な視点を提供する可能性があります。

しかし、同時に我々は贈与の原理の限界や危険性についても自覚的でなければなりません。贈与が権力関係の構築や維持に利用される可能性や、贈与の強制が個人の自由を侵害する危険性など、贈与の原理にも負の側面があることを忘れてはなりません。

したがって、贈与の原理に基づく社会の構想は、常に批判的な検討と修正を必要とします。それは、贈与と交換、個人と共同体、自由と責任のバランスを慎重に探りながら、より良い社会のあり方を模索する終わりなきプロセスとなるでしょう。

近内氏の『世界は贈与でできている』は、このような探求の出発点を提供してくれています。本書は、贈与という視点から世界を捉え直すことで、現代社会の諸問題に対する新たな洞察をもたらし、より人間的で持続可能な社会の可能性を示唆しています。

我々一人一人が、この贈与の視点を日常生活の中で意識し、実践していくこと。そして、社会全体のレベルでも、贈与の原理を組み込んだシステムの構築を目指していくこと。これらの努力の積み重ねが、やがては「贈与でできている世界」の実現につながっていくのかもしれません。

そして、このような贈与に基づく社会は、yohaku Co., Ltd.が提唱する「余白」の概念とも深く共鳴するものだと感じています。yohakuが強調する「余白」、すなわち効率性や生産性だけでは測れない価値の重要性は、贈与の本質とも深く関わっています。

贈与は、しばしば経済的な合理性を超えた「余剰」や「過剰」を含んでいます。この「余剰」こそが、人々の関係性を豊かにし、社会に新たな可能性をもたらす源泉となるのです。yohakuのOpen DialogやSelf Coachingサービスは、まさにこの「余白」や「余剰」の価値を再発見し、育むための場を提供していると言えるでしょう。

今日の情報過多の時代において、「余白」の中に真の価値を見出そうとするyohakuの試みは、近内氏が指摘する「資本主義の『すきま』」を意識的に作り出し、そこに新たな可能性を見出そうとする挑戦と捉えることができます。


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