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『則天去私』から『自己本位』へ "私の個人主義2/3"

 3連休は皆さん余白を持った時間を過ごせているでしょうか。私は以前、世間でいう休日に働く仕事をしていたので、連休と余白は遠い存在でした… 今も休日や平日関係なく仕事をすることがありますが、「私の個人主義」で語られる自分を大切にすることと余白は近いものがあります。

昨日からは、夏目漱石の「私の個人主義」という講演をまとめた本を通して、彼がどのように個人の尊厳と自立を重視しながらも、他者との調和を図ろうとしたかについて述べました。また、漱石のロンドン留学や西洋文化との出会いが彼の思想にどのような影響を与えたかを探りました。

今回は、「自己本位」という漱石の個人主義の真意を掘り下げ、彼が提唱した「則天去私」との対比を通じてその発展を見ていきます。さらに、「自由」と「義務」の調和の重要性についても触れ、漱石の思想が現代社会においてどのように適用できるかを考察します。

「自己本位」の真意

 漱石が「私の個人主義」で提唱する「自己本位」の概念は、しばしば誤解されがちです。これは単なる利己主義や自己中心主義ではなく、個人の主体性と独自性を尊重しつつ、社会との調和を図る高度な倫理観を含んでいます。

漱石は講演の中で次のように述べています。

「自己が主で、他は賓である。」

この一見、自己中心的に聞こえる言葉の真意は、個人の尊厳と自立を重視しつつ、他者の存在も同等に尊重するという、バランスの取れた人間観にあります。漱石は、個人が自己の内面に深く向き合い、真の自己を見出すことの重要性を強調しています。

しかし同時に、漱石は他者の存在を軽視しているわけではありません。むしろ、他者を「賓」として扱うことで、他者の個性や自由も尊重すべきだと主張しています。これは、個人の自由と社会的責任のバランスを取ることの重要性を示唆しています。

哲学者の鷲田清一は『「待つ」ということ』(2006)で、漱石の「自己本位」について以下のように解釈しています。

「漱石の『自己本位』は、他者との関係性を無視した独善ではなく、むしろ他者との真の対話を可能にする自己確立の思想である。」

『「待つ」ということ』(2006)

この解釈は、漱石の個人主義が単なる西洋的個人主義の模倣ではなく、日本の文化的文脈を踏まえた独自の思想であることを示しています。漱石は、個人の自立と社会との調和を同時に追求する、極めて現代的な個人主義を提唱しているのです。

「自己本位」の思想は、また、個人の内面的成長の重要性も強調しています。漱石は、外部からの影響や社会的圧力に流されることなく、自己の内面に深く向き合うことの重要性を説いています。これは、現代社会においても極めて重要な視点です。

情報過多の現代社会において、私たちは常に外部からの情報や価値観に晒されています。このような環境下で、いかに自己の内面と向き合い、真の自己を見出すかは重要な課題となっています。漱石の「自己本位」の思想は、この課題に対する一つの解答を提示していると言えるでしょう。

さらに、「自己本位」の思想は、創造性や独創性の源泉としても重要です。漱石は、真に価値あるものは、個人の内面から生まれると考えていました。これは、芸術創造や学問研究においても同様です。外部の評価や流行に惑わされることなく、自己の内面に忠実に創造活動を行うことの重要性を、漱石は強調しているのです。

しかし、「自己本位」の実践は決して容易ではありません。社会的圧力や他者の評価を気にせず、自己の内面に忠実に生きることは、時として大きな勇気を必要とします。漱石自身、作家としての活動において、この困難さを痛感していたことでしょう。

それにもかかわらず、漱石が「自己本位」を強く主張したのは、それが個人の尊厳と社会の健全な発展にとって不可欠だと考えたからです。「自己本位」の実践を通じて、個人は真の自己を見出し、同時に他者の個性も尊重する態度を養うことができる。そして、そのような個人の集合体としての社会は、より豊かで創造的なものになるというのが、漱石の理想だったのではないでしょうか。

「自己本位」の理念をさらに深く理解するためには、漱石の文学作品に目を向けることが有益です。『それから』の主人公、代助は自分の内面的な真実を探求し、社会の期待や規範に反しても、自らの信念に基づいて行動する姿が描かれています。この作品は、漱石の「自己本位」の思想を具現化したものと言えるでしょう。

漱石の「自己本位」はまた、教育の分野にも重要な示唆を与えます。現代の教育は、しばしば画一的な価値観や目標に基づいて進められることが多いですが、漱石の思想は、個々の生徒が自己の内面に向き合い、独自の能力や興味を追求することの重要性を強調しています。これにより、真に創造的で自主的な学びの場が形成されるでしょう。

「則天去私」との対比

 「自己本位」の概念をより深く理解するためには、漱石が以前に提唱していた「則天去私」との対比が有効です。「則天去私」は、個人の欲望や主観を捨て、天(自然や宇宙の理法)に従うという東洋的な思想です。

漱石研究者の小森陽一は『漱石を読みなおす』(2016)で、この思想的転換について次のように分析しています。

「『則天去私』から『自己本位』への移行は、漱石が東洋的思想と西洋的個人主義を独自に統合しようとした試みの表れである。」

『漱石を読みなおす』(2016)

この転換は、漱石が単に西洋の個人主義を受容したのではなく、日本の文化的背景を踏まえつつ、新たな思想を創造しようとしたことを示しています。

「則天去私」は、仏教や道教の影響を強く受けた東洋的な思想です。この考え方では、個人の欲望や主観的判断は迷いの源であり、それらを捨て去ることで真理に到達できるとされます。漱石の初期の作品、特に『草枕』(1906)などには、この思想の影響が強く見られます。

一方、「自己本位」は、個人の主観や内面性を重視する西洋的な個人主義に近い概念です。しかし、漱石の「自己本位」は単純な西洋的個人主義の受容ではありません。それは、「則天去私」の思想を完全に否定するのではなく、むしろそれを包含し、さらに発展させたものと言えるでしょう。

漱石は、個人の主体性を重視しつつも、同時に自然や社会との調和を図ることの重要性も強調しています。これは、「則天去私」の思想における自然との調和の理念を、個人の主体性と両立させようとする試みだと解釈できます。

この思想的転換の背景には、漱石の個人的経験や日本社会の変化があります。ロンドン留学での西洋文化との邂逅、そして急速に近代化する日本社会の中で、漱石は個人の主体性や創造性の重要性を強く認識するようになりました。

同時に、漱石は西洋的個人主義の限界も感じていました。極端な個人主義は、社会の分断や利己主義につながる危険性があります。そこで漱石は、東洋的な調和の思想と西洋的な個人主義を高次元で統合しようと試みたのです。

この統合の試みは、現代社会においても重要な示唆を与えてくれます。グローバル化が進む中で、異なる文化や価値観の衝突が問題となっています。漱石の思想は、異なる文化的背景を持つ思想を創造的に統合する可能性を示唆しているのです。

さらに、「則天去私」から「自己本位」への転換は、漱石の文学作品の変遷にも表れています。初期の作品では、主人公たちは社会や自然との調和を求めて苦悩する傾向がありましたが、後期の作品では、より積極的に自己の内面と向き合い、社会の中で自己を確立しようとする人物が描かれるようになります。

この転換は、単なる思想の変化ではなく、漱石自身の人生経験や日本社会の変化を反映したものだと言えるでしょう。それは、近代化という大きな変革の中で、いかに個人のアイデンティティを確立し、同時に社会との調和を図るかという、極めて現代的な課題に対する漱石なりの回答だったのです。

情報化社会における個人主義の再考

 デジタル技術の発展とインターネットの普及により、現代社会は漱石の時代とは比較にならないほど情報化が進んでいます。このような環境下で、漱石の個人主義思想はどのような意味を持つでしょうか。

情報社会学者の吉田純は『インターネット空間の社会学』(2000)で次のように述べています。

「ネットワーク社会において、個人は膨大な情報の中から自己を確立する必要がある。この点で、漱石の『自己本位』の概念は新たな意味を持つ。」

『インターネット空間の社会学』(2000)

確かに、SNSやビッグデータの時代において、個人は常に他者の目にさらされ、また他者の情報に影響を受けやすい状況にあります。このような環境下で、いかに「自己本位」を保ち、真の個性を発揮するかは重要な課題となっています。

漱石の個人主義は、単に他者と異なることを目指すのではなく、自己の内面に深く向き合い、真の自己を見出すことを重視しています。この姿勢は、情報の洪水の中で自己を見失いがちな現代人にとって、重要な指針となるでしょう。

特に、SNSの普及により、他者の目を意識しすぎる「承認欲求」の問題が顕在化しています。多くの人々が、「いいね」の数や他者からの評価に過度に依存し、自己の価値を見出そうとする傾向があります。このような状況下で、漱石の「自己本位」の思想は、外部からの評価に左右されない、真の自己価値を見出すことの重要性を再認識させてくれます。

また、AIやビッグデータの発展により、個人の行動や嗜好が詳細に分析され、パーソナライズされた購買活動などは予測可能になりつつあります。このような状況は、個人の自由意志や主体性の概念に大きな挑戦を投げかけています。漱石の個人主義は、このような技術決定論的な世界観に対して、個人の内面的な自由と主体性の重要性を再確認させてくれるでしょう。

さらに、インターネットの普及により、個人が膨大な情報に容易にアクセスできるようになりました。しかし、この情報の氾濫は必ずしも個人の知的成長や創造性の向上につながっていません。むしろ、表面的な知識の蓄積や、他者の意見の単なる模倣に陥りがちです。漱石の「自己本位」の思想は、単なる情報の受容ではなく、自己の内面と対話しながら情報を咀嚼し、独自の思考を展開することの重要性を教えてくれます。

一方で、情報化社会は漱石の個人主義思想の実践にとって、新たな可能性も提供しています。例えば、インターネットを通じて、個人が自己の思想や創作物を世界中に発信することが可能になりました。これは、漱石が理想とした「個性」の発展と社会的貢献の新たな形態と言えるでしょう。

また、オンライン上のコミュニティーの形成により、地理的・社会的制約を超えて、共通の興味や価値観を持つ人々が集まることが可能になりました。これは、漱石が提唱した「個性」の尊重と社会的調和の新たな可能性を示唆しています。

しかし、これらの可能性は同時に新たな課題も生み出しています。例えば、オンライン上の「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」の問題は、個人が自己の価値観や意見に閉じこもり、多様な視点や意見に触れる機会を失う危険性を示しています。漱石の個人主義が目指す、個性の発展と社会的調和の両立は、このような問題に対しても重要な示唆を与えてくれるでしょう。

情報化社会における漱石の個人主義の再考は、単に過去の思想の現代的解釈にとどまりません。それは、テクノロジーの発展がもたらす新たな倫理的・社会的課題に対する、重要な思考の枠組みを提供してくれるのです。漱石の「自己本位」の思想は、情報化社会における個人の在り方、そして個人と社会の関係性について、深い洞察を与えてくれるものだと言えます。

次回は、この漱石の個人主義思想をさらに深掘りし、現代社会における適用可能性について考察します。情報化社会やグローバル化が進む中で、漱石の「自己本位」の思想がどのように再解釈され、どのような新たな意味を持つのかを探っていきます。デジタル技術の進化、労働環境の変化、教育のあり方など、現代の様々な課題に対する漱石の思想の有用性を見つめ直すことで、私たちが直面する問題への新たな視点を提供することを目指します。


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