【ソウウツ通信】たぬきの処世術編のはじまり【10】
こんにちは。
躁鬱たぬきは文章力は無いものの、筆まめなので【10】までやってきました。
たぬきは躁鬱病です。鬱の時はなんの興味も沸かずに寝たきりになり、これまで何度か最長で6ヶ月の寝たきり生活などをしたことがありますが、躁状態だと色々なことに興味を持ちだします。
登山は高校の時からやっていて、昨年は(ようやくですが・・・)槍ヶ岳に初登頂しました。
キャンプが好きで、連泊しようと思ってキャンプ場をハシゴしたこともあります。
小屋作りに興味深々で、これまでに農機具小屋を一軒建てましたが、最近また新しい小屋を作ってみたい気持ちに駆られています。
そんな農機具小屋を作った畑では10年近く家庭菜園規模の農作業をやっています。
古民家と生活感があふれる町並みが好きで、旅に出ると何の変哲もない街を見て歩いたりします。
古民家はその存在だけで魅力的なので、守っていけたらいいなと思って活動しています。
だけれど、たぬきは躁鬱病。
鬱で動けなくなる時を考慮して、ふつうの人の五分の一、自分のキャパシティのうちの三分の一ぐらいの活動に抑えようと努力しています。
なので、躁状態や気分が安定しているときは鬱基準の活動量ではかなり暇になるのです。そして、今、絶賛暇な状態。
たぬきは自営業なので三月の確定申告が終わったら、すごく暇になってしまいました。
ひと月くらいは太宰治が好きだったことを思い出して、小説をだらだら読んでいましたが、ぼちぼち全巻読み終わってしまいます。そしたら、また暇になります。
でも、ここで活動量を増やしてしまうと、やがて来る鬱期の時にキャパオーバーでパンクしてしまうことは目に見えているので、無理なことは致しません。
そうやってたぬきは躁鬱病との付き合い方をしているのです。
でも今、超暇なのです。
そこでたぬきは高校生の時から10年間、毎日日記を書いていたことを思い出した。もしかして、自分って筆まめなのかな??と思い出したのです。
そこで、何か文章でも書いてみようかなーと思い立ち、今書いている感じ。
勢いに任せて書いているので支離滅裂だったり、自分でも何が言いたいのか、むしろ、今何書いているのか離人症のようにわけわからなくなることもありますが、流れに任せてとりあえず書いています。
重要視するのは文量。それだけ。とりあえず、一章あたり6000字を目安に書いているのです。
で、小屋作り、畑、建築、資格の勉強法、登山、キャンプ、バイクツーリング、自営業・・・なんのことについて書こうかなーと思ったときに、一番長く続けているものが登山でした。25年くらい。でも、最近登ってない。
たぬきは昔、登山のし過ぎで、膝を壊してしまったのです。ちょっと登るとすぐ膝が痛くなる。
小屋作りは一度やっただけ。畑は10年。建築は表面的に20年でそんなに語ることもできない。資格は最近趣味なのかもって気づいた程度。キャンプは登山の派生で昨今のブームで、パイオニアとしての地位は無い。バイクツーリングも登山からのキャンプからの派生。一昨年、ひと月かけて北海道ツーリングしたけれど。
なんならそん時、こういう文章書いてればよかったと思わなくもない。
で、躁鬱病なわけです。
躁鬱病は15年。登山の25年、建築の(表面的な)20年と比べて歴は浅いけれど、なかなかなもんだ。
躁鬱人としていくらか語れることは持っているんじゃないかと思い立ったわけです。
そこで書き始めたら案外けっこう書けた。
面白いかどうかは知ったこっちゃない。そもそも暇つぶしで始めたんだもん。
でも、たぬきは多少、一応、それなりに、なんとなく考えているわけです。
駄文ながらも躁鬱人や、躁鬱人に近しい人たちにとって何かしら役に立ってもらえればいいな、と。
躁鬱人としての経歴は15年と長いけれど、躁と鬱を繰り返してきて、これまで一年続けて元気だったことはありませんでした。
だけれど、今回の安定期は丸一年を越しました。初めてのことです。
なんでこんなに安定していたんだろうとこの一年、ちょっと考えてみたわけです。
外部要因?自分の考え方の変化?
たぶん、そのどちらもです。外的要因は苦手なモノにはなるべく近づかないようにしていた。それで自己嫌悪に陥りそうになったこともあったけれど、それでよし!と考えるようにした。
躁鬱を何度か繰り返して、でかい躁のあとにはその代償としてでかい鬱が来ることがようやくわかった。なので、躁状態になりかけの時には敢えてクールダウンを設けるようにした。
今、パッと思いつくのはこんなところです。
ともあれ、外的要因も自分の考え方の変化もどちらも、この丸一年を越す安定期に寄与していると考えらえれるわけです。
そんなことを思いながら、【ソウウツ通信】と題しまして、【1】~【9】ではワタクシ、たぬきの躁鬱体験をもとに、躁鬱人ってこんな傾向があるよねーってなノリで書いてきたつもりです。
躁鬱人本人にとっては「あるある!」とか「ここは自分と違うけれど、こういう人もいるんだな!」と共感してもらったり、安心してもらえたらと思って書いてきました。
躁鬱人を近くに持つ人にとっては躁鬱人の傾向とか扱い方とか、むしろうまくコントロールすれば躁鬱人は常人ならざる活躍をすることも(まれに)あるので、躁鬱人の利用の仕方というか活用の仕方のヒントになるような文章を書いてきたつもりです。
その中で、「充電機会を多く持つようにしよう!」だとか、「鬱スイッチ/回復スイッチ」とか造語を作ってみたり、作ってみなかったり、無理やりこねくり回して「処世術」みたいなものを書こうとして、帰ってわかりにくくなってしまったような気もしています。
別にたぬきはインフルエンサーでもなんでもない。ただの躁鬱人です。
そもそも偉そうなこと言える立場では無かったのです。
そんなことを無理して書くよりも、現状をつまびらかに書くことの方がよっぽどみんなの役に立ちそうだという思いになりました。
・・・と言ったって、「今日は病院に行って薬が増えました。副作用で体がだるいです」とか「毎日なんの気力も無くて死にたい」とか「お散歩したらもう春になってたんですね。冬は体調悪くて寝たきりです」とか、これは鬱っぽい話ですが、躁だったら逆に「自民党の陰謀についてモノ申す!」とか「少子高齢化を放置した政治の大罪!」だとか「空き家が増えているのに、新築住宅をどんどん売るハウスメーカーってなんなの?!?」みたいな社会に対して攻撃的になる話をして、せっかく見てくれた人たちは何が面白いのだろう?と言う思いがありました。鬱期の話は見ているだけで気持ちが萎えますし、躁期の話は飛躍しすぎて何言ってんだこいつ・・・です。
また、「躁鬱病とは?」「躁鬱病の家族を持つ人の暮らし方」「鬱の人に言ってはいけない言葉」「HSPの人の得意なこと、苦手なこと」とかっていう文章も結局のところ書いている本人が市販の本とかインターネットで調べたことをまとめて書いたであろうにすぎません。そんなん、本屋さんで2~3冊本を買えば十分な気もします。
もっと、楽しく躁鬱を語りたい。たぬきはそう考えたわけです。
もとより、たぬきは自己卑下力のあるたぬき。自己を卑下してシュールな笑いを提供するのが好きなタイプなのです。
まあ、それがみんなにとって面白いと思ってくれるか否かは別問題として、「家買っちゃったー!」とか、「思い立ってひと月かけて北海道1周してきました!」とか「寝たきりで三日に一度ジュースを飲むくらいしかできなくて死にかけました!」と言った話をした方が、「ああ、躁鬱人ってそういう傾向があるのね」って思ってくれたり、「これは躁鬱人の特徴だったのか!」と面白おかしく知ってもらえるような気がしたのです。
なんとなく、漠然とですが、そんな意識をもって、【9】まで書いてきました。
うん。それはそれでいいんです。
でも、せっかくだからそんな躁鬱傾向のある躁鬱人歴15年のたぬきが、躁と鬱を繰り返しながら、どうやって現在の丸一年の安定期を築いたのか。
今後、再び鬱になるかもしれない自分への言葉としての意味も含めて、その処世術的なことも書いておこうと思ったのです。
すなわち、たぬきが建築職の公務員をやめて、設計事務所を経由して、今の自営業に至ったのか、とか、食い扶持の作り方とか、苦手なことからの逃げ方とか得意なことの伸ばし方とかそんな感じのお話です。
ある意味経験談とも言えますが、前半と異なるのは「処世術」に焦点を当てていることです。
より躁鬱人本人に向けた文章になります。
これはたぬきごく個人の処世術なので、丸々全体が役に立つとは思っていませんが、躁鬱人にとって、何かしらのヒントになるような気がしています。
たぬきは本当に病んでいるときはついつい自己啓発本やメンタルヘルス系みたいな本を読んだりもしてきましたが、影響されたことは皆無です。本屋さんでもなるべく、そんな類の棚に近づかないようにしています。(一応参考までにと軽くパラパラ眺めることはありますが。)
「これを毎日続けましょう!」「こういう考え方をしてみては?」みたいな本で多分役に立つのは1%あるかないかくらいじゃないでしょうか?
だって、考え方だって、行動の傾向だって、そんなん人それぞれなんだもん。
結局、自分の快適な暮らしを見つけるには、自分で考えて試行錯誤しながら答えを探していくしかないのだと思います。成功するかしないかは自分次第。すぐ答えが見つかるか、一生かかっても見つからないかも自分次第。
それぞれの人生だから仕方が無いですね。
それを踏まえて、たぬきは自分の処世術を書こうと思っているのです。自己啓発本が苦手だからこそ、無理強いは全くしません。軽く読み進めて、自分で納得したことだけ取り込んだり、反発して全然違う処世術を見つけた方がいいと思うのです。
それは人それぞれで答えを出した処世術なのですから。
そして、たぬきもそんな処世術・・・できれば躁鬱人の処世術的な読み物があったら読んでみたいです。あったら教えてください。坂口恭平さんの「躁鬱大学」は読みました。自分の考えをあまり強制しない感じで読みやすかったです。(あれ?もしかして強制してたっけ?)
本当に、それくらいしか処世術的な観点で書かれた躁鬱人の本というか文章が見当たりません。
みんな通院・入院体験談とか「いいんだ・・・いいんだよ、それで。」みたいな方面の感じが多い気がするのです。
もっと積極的に!なんなら躁鬱人としての特徴をむしろ活かせるような処世術的な!攻撃的な本が読みたい。そんな本無いですかね?
・・・とうだうだと書いていたら、ちょっと攻撃的な気持ちになってきました。プチ躁状態かも。。。この辺でやめておこう。
さっき、躁状態になりかけたらクールダウンしよう!と言ったばかりじゃないか。
なので、たぬきはこれから太宰治の「ろまん燈籠」を読みにその辺の公園のある墓地に行って来ようと思っているのです。
処世術編は(うまく書けるかわかりませんが)次回以降本格的に書いていこうと思います。
今回は、前回から趣向が変わりますよーっていうお伝えをしたくて書いてみました。
ではでは、そんな挨拶なので、いつもよりちょっと短めな文量ですがおしまいにしたいと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
ではでは。
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