七夕の願い(僕が失明するまでの記憶 21)

 6月になっても見え方に特段の変化はなく、思うように視力は回復しなかった。寝るときは右側を下にしろと言われたらその通りにしたし、動くなと言われれば忠実に従った。痛みの伴うレーザー治療にも耐えた。それだけにまた手術をすると聞かされたときは、落胆を隠せなかった。いつか良くなることを信じて受け入れるしかなかった。

 入院生活は思うように目が使えない上、行動にも何かと制限があったので、暇を持て余していた。せいぜいやれることと言えばラジオを聴くこと、それに食べることぐらいだった。4年前に買ってもらったラジオがこんな形で日の目を見るとは想像もしていなかったけれど、おかげで時事ニュースやヒット曲、プロ野球の動向にずいぶん詳しくなった。特に日々のナイター中継は無害な暇つぶしであり、ささやかな楽しみの一つだった。

 1990年のプロ野球は、開幕前の不安をよそに、藤田監督率いる読売巨人軍が安定した強さを見せ、首位を独走していた。ペナントレースの争いという点では些か面白みに欠けるシーズンだったが、それが日々の試合を退屈にすることはなかった。野球であればどのチームの試合であっても、それなりに楽しむことができた。

 手術日の二日前は七夕だった。 朝、ベッドのシーツの交換で病室を出ると、看護婦さんたちが待合のロビーで笹の飾り付けをしていた。「短冊に何か願い事しない? 代わりに書いてあげるよ」と看護婦さんの一人から声をかけられた。

 僕は元来、ファンタジーに夢を託したり、何かを祈って請い求めたりするタイプではなかった。絵空事より目に見えるもの、形あるものを好んだ。自分を救えるのは自分しかないと信じていた。といって看護婦さんの善意を無下にするのも気が引けたので、会話の文脈と置かれた状況からこう書いてもらうようお願いした。

 「早く病気が治って、目が見えるようになりますように」