象徴的な一葉(僕が失明するまでの記憶 7)

 Rちゃん以外の友達ができるのは、小学校に入学してからのことだ。性別や家柄が違っても同じ場所にいればすぐに仲良くなれるのは子供の愛すべき特権である。その例に違わず、僕にも友達と呼べる人が何人かできた。学校が終わって家に帰ってから、ランドセルを置いてすぐに友達宅へ遊びに行くこともあった。Rちゃんと同様大きな家の子ばかりで、たいていの家には発売されてまだ間もない任天堂のゲーム機があった。場違いな仏壇を見かけることは一度もなかった。

 相変わらず家に友達を招くことはなかった。絶対にダメだと母に言われていたからだ。母は極端なまでに他者との関りを恐れていた。それは一つに家が狭くて客を入れる余裕がなかったこともあっただろうし、障害のある兄を人の目にさらしたくないという思いが働いていたのかも知れない。何にせよその影響で「家には友達を呼べない」というのが、いつしか侵すべからざる暗黙のルールとなっていた。

 対等とは言い難いそのような関係性を子供ながらに感じ取っていたのだろう、友達は僕を少し距離のある存在、もっと言えば格下の友達として見ていたところがあった。兄の障害や家の宗教のことで「あの家の子とは仲良くしない方がいい」などと知らないところで言われていたのかどうかは定かではないけれど、年賀状はいつも送った数より受け取る数の方が少なかった。友達であるかどうか、いざ厳しい線引きが行われれば、僕は真っ先に脱落する存在だったのだ。

 2年生の遠足でのことだ。昼食をとる時間、気の合う仲間同士で自由に集まって弁当を食べていいということになり、皆が次々とグループを作っていく中、一人木陰に敷物を敷き、周囲に背を向けるようにして座っておにぎりを食べていたところを激写されたことがあった。取捨選択の生存競争に勝てる自信などさらさらなかったし、気の合う人と一緒になれない寂しさを抱えるぐらいなら、最初から一人でいることを選んだ方がいい。その程度の考えに過ぎなかったのだが、担任にとっては予想外の言動だったようだ。そんな場面を盗み撮りする教師の倫理観や人間性はさておくとしても、当時の僕の置かれた状況や心情を象徴的に切り取った一葉であったことは否定できない。