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2021年5月ブックカバーチャレンジ5日目『植民地遊廓』

『植民地遊廓』金富子・金栄著

それは私がまだ最初の商売である家電量販店のサービスマンをやっていた時の事、ざっと40年程の昔、横須賀市上町3丁目にある顧客に訪れた時のことです。
 横須賀の住宅街といえば新たに開発された振興住宅地以外は区画整理されず狭くて細い曲がりくねった道しかない。そんな中、突然に幅広い一直線の道路が現れ、両側にはトルコ風呂とピンクサロンが何軒か並ぶ、素人目に見たって遊廓の跡がくっきり残る町並みに驚いたものでした。この遊廓は「柏木田遊廓」と呼ばれ、元々は今の横須賀中央辺りにあった「大瀧遊廓」が近くの豊川稲荷付近で起きた火災で類焼し、当時は田んぼだった柏木田に移転したものだった。焼失した「大瀧遊廓」に6つの貸し座敷を持っていた嶋崎屋とは島崎藤村の小説『夜明け前』のモデルになった家系だった。そして「柏木田遊廓」をモデルにした小説というのもあって、山口瞳著『血族』の舞台はまるごと「柏木田遊廓」だった。

今となってはほぼ一般的に知られていないが、日本の軍隊の駐屯地の近傍には必ず遊廓が存在した。遊廓は明治維新以降、行政警察によって管理された。日本軍が作られたのは明治政府でありその立役者が大村益次郎であるが為、靖国神社には大村益次郎の銅像が高くそびえ立っている。藩兵を廃止し、日本に軍隊が作られ、兵営という駐屯地が定められた。この時点での遊廓は徳川政権下の宿場町が中心線となっていた。しかし最大の顧客が旅人から軍人さんに変わった事で変化が起きた。兵営が出来て新たに遊廓が出来た場所として佐倉、善通寺、久留米など14箇所で横須賀も海軍兵営の設定で新たに作られた遊廓だった。従来の場所から兵営の近くに移転した例が仙台、豊橋など7カ所。旧来の遊廓が増強された例が広島と旭川。そして遊廓の設営を認めなかったのが水戸、高崎、和歌山と駐屯地を管轄する警察によって対応も分かれていた。

そして日清戦争という外国に日本軍が進出し、戦争が終結して釜山が開港し、朝鮮半島には日本の民間人が居住する様になった。1881年、釜山領事館は日本人が住む居留地に「貸座敷営業(公娼制)」いわゆる「居留地遊廓」というもの許可した。朝鮮半島には存在しなかった遊廓の出現だった。しかし多くの国が利用する仁川(1883年開港)の領事館は最初、遊廓を認めなかった。その後、朝鮮半島が日本の「保護国」という植民地となると「居留地貸座敷」から「特別料理店」となり「占領地公娼制」と移行して行った。そもそも朝鮮には公娼制遊廓など存在していなかった。

同じく日本の植民地となった台湾にも公娼制の「遊廓」は存在していなかった。下関条約が締結された翌月、日本軍が台湾に上陸すると激しい抗日運動に見舞われ、2個師団を投入した台湾征服作戦で多数の日本兵が台湾に居た。台湾には日本からの渡航が禁じられている為に多数の日本兵の相手をする女性は台湾の民間人、私娼だった為に性病が大流行した。この事に危惧した野戦衛生長官が私娼に性病検査を義務づけた「みなし公娼」を始め、結局は業者を入れて遊廓を作り公娼制にした方が軍隊にとって安全だった。この台湾の事例がそのまま朝鮮半島に持ち込まれ、「植民地遊廓」というものが出来上がった。

植民地遊廓のお客さんは一般民間人ではなく軍人さん。あまりにも人数が多い為に遊女なんて優雅なものではなく単なる性処理係のお姉さん。今の言葉で言う公衆便所というのが実態。処理する人数も管理されているので一人十何分以内で処理する肉体労働。
 公娼なので監督管長に届け出をし、定期的な検査を受けないといけない。処理する人数も多いので日本からの労働力では不足したので現地採用もある。そもそも公娼といっても接客する側に芸奴、酌婦、娼奴、私娼とランク付けがあって私娼以外全てが公娼ではない。これが外部から遊廓内部を見えなくし、あらぬ誤解の元になっている。
 一つ前のブックカバーチャレンジ4日目のテーマ、恤兵という募金に最初に応募するのは遊廓の遊女というのは、軍隊とはお客様であるから。実際の銭は雇っている側が出すが、名前は遊廓のお姉さん達の名前。恤兵の銭の源泉は兵士たちのなけなしの銭なのですよ。

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