「沖縄は見捨てられているのか」日米地位協定と提供施設全土方式の歴史について

下記小文は2004年10月のキーマン@nifty「沖縄は見捨てられているのか」の再掲載です。

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沖縄は今でもアメリカの軍政長官が居て、沖縄を統治しているのかもしれない。2004年8月13日、宜野湾市にある沖縄国際大学構内にアメリカ海兵隊所属のUH60ヘリコプターが墜落し墜落の際、飛散した部品類は付近の民家や商店を直撃、幸いにも乗員以外に死傷者が出なかったものの間一髪で助かったに過ぎない状況でした。当然ながら事件は沖縄の人々の怒りの嵐を再び呼び、宜野湾市議会など議員全員で関係省庁に抗議に回るという本土では想像出来ない怒りの嵐が吹き荒れ、9月11日に沖縄国際大学で開かれた抗議集会には主催者発表で3万人もの人が集まる程の怒りの嵐は吹き荒れています。
 自民党議員団が先頭に立って在沖米軍の即時撤退を叫ぶ沖縄。本土で在日米軍撤退を口にするのは共産党と市民運動だけと思い込んでいる人があまりに多い。たしかに、本土の新聞でのこの事件の扱いは沖縄タイムスや琉球新報と違い墜落した直後にしか紙面に反映され忘れ去られている。例えば沖縄タイムスのホームページにある「米軍ヘリ墜落」特集を見ると日々、重要な動きがある。
 本土の人(ヤマトンチュー)は一主権国家に他国の主権の象徴たる外国軍隊がいる事を不思議に感じることが悪い事である様に思う人がネットワークでは多く、「プロ市民」などと言う人を小馬鹿にした表現を多用する者が目立つ。そのような調子だから沖縄の人(ウチナンチュー)の怒りが理解できない。

今回の事件でも明らかになった様に、アメリカ軍は事故機の周辺を日米地位協定の規定を拡大解釈し、勝手に事故機周辺を立入禁止にして日本側の警察・消防を日本の主権の及ぶ地域に入れず生活道路まで封鎖して周辺住民の交通まで遮断し、事故機回収の為に、大学側に無断で仮設道路を作り、植樹を伐採し、土を掘り起こすという私有財産の処分までも勝手に行なっている。これは明らかに日本に対する主権侵害であり、文明国として失格な行為であった。
 過去に起きた同類の事件、たとえば1968年に九州大学工学部の建設途中の電算機センターにF4ファントム偵察機が墜落した事故や、1977年9月27日に横浜市緑区茬田町にアメリカ海軍第五航空団所属の空母艦載機F4ファントム偵察機が墜落した時もエンジン部分は米軍に回収されたが実況検分は県警と合同で行なわれている。
 横浜での事件を説明すると、厚木基地を北方向に離陸した偵察機は離陸直後にエンジントラブルが発生、南側の相模湾に行く事も出来ず付近で一番住宅のない港北ニュータウンに墜落させ結局、偵察機は無人の野とはゆかなかったものの殆ど住宅の立っていない住宅地に墜落したのですが、それでも3軒の住宅を全半焼させ、死者3名負傷者6名を出し、特に重体だった主婦の皮膚移植は5回行なわれ、最後まで子供が亡くなった事は一切伏せられていた事が有名になりました。この時も米軍側はエンジンだけは警察・消防を寄せつけず回収してしまった事が問題になり、この事件の後、横浜市と神奈川県は在日米軍厚木基地と航空機事故発生時の取り決めというのを1978年に締結している。しかし今回の宜野湾での事件は全く違い、警察・消防ともに全く寄せつけなかった。
 今回の事故では疑惑を呼ぶ行動として墜落機の落ちた付近の表面土壌をごっそり回収している。この為、墜落機には劣化ウラン弾が搭載されていたのでは?とか、尾翼のカウンターウエイトに劣化ウランが使用されていたのではないかと疑惑を呼び続けています。
 劣化ウラン弾について、在沖米軍広報部は8月27日の会見で、事故機は訓練飛行中であり、劣化ウラン弾は搭載されていないとし、カウンターウエイトはタングステンを使用していると発表した。しかしその後、9月3日に行なわれたアメリカ大使館の発表によると、放射性物質は回転翼の先端に付いている氷結センサーに使われていたストロンチウム90の入った装置6個のうち1個が墜落時の火災で消失してしまった事を明らかにしている。ちなみに日本の法律ではストロンチウム90は特定放射性物質として厳重な管理を求められている危険な物質である。

本土での対応と沖縄での対応の違いについて、地位協定の恣意的な運用がなされていたのではと指摘に防衛庁長官の返答は歯切れが悪い。その日米地位協定の成立の歴史をひもとくと、駐留軍に土地・建物の選択肢を持たせた「全土方式」を地位協定に規定してしまった事に突き当たる。アメリカ軍側の都合で「ここを接取する」とアメリカ軍側が言ってきたら、そこを駐留軍施設として防衛施設庁が借り上げて提供するという図式が根底としてきた事が指摘されます。アメリカは幾多の国に基地を持ち、地位協定を締結したが、「全土方式」を取ったのは日本だけだった。
 日米地位協定の歴史は日本の占領が終了する1950年より前に遡る。日本占領軍総司令官マッカーサー元帥が対日早期講和の提唱をしたのは1945年10月、日本降伏後二カ月後からアメリカ国務省極東局政策企画室で様々な行政協定についての研究が始まり、地位協定はその中の一つであった。
 当時、アメリカを始めとする西側諸国は英国のウィストン・チャーチルが1946年3月5日の演説で述べた「鉄のカーテン」発言に代表される様にソビエトとの冷戦に突入し、米ソ全面戦争の可能性が言われていた。アメリカにとって西太平洋の防衛最前線基地として日本は位置づけられる中、沖縄は要塞として、日本本土は陣地として防衛線として考えられた。日本全土が防衛前線なのだから野戦陣地はどこでも作れなくてはいけない。沖縄は要塞だから全て軍政長官の命令下におかれなければいけない。事実、沖縄は沖縄戦で平地の多い南部は全てを破壊され、アメリカ軍の援助なしでは行政機関すら成り立たなかった。
 地位協定の草案はこの事を考えた上で陸軍省占領地域担当補佐官マグルーダー少将の作業班が最初の叩き台を作りマグルーダー草案という形でこの世に生まれた。この草案は国防省の承認を受けたものではなかったが、同案をラスク極東担当国務次官補へ送付、更に修正を受けた案はラスク修正版とされた。ラスクはマグルーダーの「全土基地方式」に対して慎重な態度を取り、日米両政府の代表者による協議を盛り込んだ。これが日米合同委員会の発足根拠であった。
 ラスクは新たな土地取得については慎重だったが、既に使われている施設、土地などの利用には反対はしていなかった。
 マグルーダー草案の作られる少し前の1947年9月19日、宮内庁御用掛の寺崎英成は連合軍総司令部(GHQ)外交局のシーボルト(William J. Sebald)局長に「沖縄の将来に関する天皇の考え」というものを届けている。この日、天皇は外務大臣から二回目の安全保障問題についての上奏をうけていた。
 GHQに届けられた天皇の考えとは、この年の2月1日に予定されていたが実行されなかった日本中の交通機関や各産業が一斉にストライキを打つゼネラルストライキのような騒乱が発生し、日本国内の混乱に乗じ、軍事的脅威として見られているソビエトや中国が日本に侵攻してくる様な事態が発生した場合に備えて、アメリカが沖縄を始めとする琉球諸島の軍事占領を続ける事を希望する。その占領はアメリカの利益になるし、日本を守る事にもなる。そうした政策は日本国民がロシアの脅威を恐れているばかりでなく、左右両翼の集団が台頭して共産勢力がそれを口実に内政に干渉してくる事態を恐れるが故の事だと伝えている。つまり天皇は沖縄を要塞とし、本土での戦闘を回避したいと言うのが要旨になる。
 なぜ天皇が、こんな事を言い出したのかというと、一つには当時の日本ではGHQが押し進めた社会構造改革の波に乗って共産党の勢力が強まり、このままだと共産党が革命を起こし、ソビエトや中国が革命を支援する為に日本にやってくるという話を天皇の耳元でささやき続けた数人の政府高官がいた。そしてもう一つはGHQ内部抗争の追い落としに利用された可能性というもある。
 このGHQ内部のゴタゴタというのは、GHQ内には二つの諜報部局があった事に由来する。一つは第8軍司令部に純粋に軍事的見地で仕切る陸軍の参謀本部二部・作戦部のG2とその下部組織にCICと呼ばれる部隊が全国7つのブロックに分けて担当し、占領政策の実施に深く関わっていた。そしてGHQ内部の組織としてGS(民生局)という組織があり、両者は常に仲が悪く、総司令官マッカーサーの前でG2とGSの責任者はいつも激論を繰り返していた。そして同じくGHQ内の組織の一つのESS(経済科学局)もG2の攻撃対象になっていた。GSとESSの一番の功罪は「FEC330号」という文書で、アメリカ本国も知らない財閥解体指令文書であった。つまりGHQの部局で勝手に始めた占領政策だった。
 日本占領で絶大な権力を持っていたのはGHQ民生局長代理のケージスであった。彼は日本占領目的である軍閥・財閥の解体、軍国主義集団の解散、軍国主義思想の破壊といった任務を遂行する為に戦争中、非合法集団として地下に潜っていた日本共産党を利用して旧体制の破壊を押し進めていた。結果、日本共産党は人気を得て日本中に拡大し、その後の選挙で36名の国会議員を送り込む事に成功する程の人気を得ていた。
 この強引な手法にケージスは共産主義者ではないかと勘繰る者もあり、対共産勢力に力を注ぐ第8軍とは真っ向から対立する為に、第8軍にとって目障りな存在だったケージスを本国強制送還させる為にG2は腐心した。民生局が首尾よく民主化を押し進める為の旧体制破壊までは良かったものの、その為に生まれた労働組合などが非民主主義的な占領政策に歯向かうという、GHQは自分で撒いた種に苦しめられる結果となってしまった。
 この為のGHQ内部部局と第8軍はお互いを密告し合って、誰がアカだ、彼が何だと双方が相手部員の強制送還合戦を繰り返す事となった。そのドタバタに終止符が打たれたのは1947年、日本にCIA(中央情報局)とPSB(心理戦略局)がやって来て、郵船ビル四階にDRS(記録局)を作りG2とGS双方の組織からヘッドハンティングをし、最終的には1949年に可決成立した法律でCIAが完全な勝利を納めるまでドタバタは続いていた。
 このようなGHQ内部のドタバタが講和後の駐留政策案に影響を与えないと誰が言えようか。天皇自身ですら沖縄戦での日本陸軍沖縄守備隊の最高責任者だった牛山中将の最後の公電にあった「戦後、沖縄県民に特別の配慮を」という有名な言葉をあっさり忘れてしまっている。
 ほぼ大勢の意見が沖縄切り離しで合意をみた所で、地位協定の叩き台が出来、沖縄・琉球諸島はアメリカの信託領土として日本国領土でありながら日本の主権の及ばない地域となり、アメリカ軍による軍政が本土復帰まで続いた。講和から日本への返還まで沖縄はアメリカ軍の軍政下におかれ、軍政長官には要塞司令官同様の権限が与えられ、沖縄は要塞と化した。要塞の象徴は「メースB」という弾道ミサイルの配備だった。「メースB」は本土復帰に伴い撤去され、発射サイロは既に返還されているがコンクリート建造物は今もなお残っている。
 今でもアメリカ軍にとって沖縄は要塞でありアメリカ軍の自由になる地域だという感覚が根強い事を示す出来事として、キャンプ・ハンセン内で建設が進んでいる都市型戦闘訓練施設というものがある。現在、アメリカ軍は同様の訓練をフィリッピンのクラーク空軍基地跡で実施しており、その前からグアム商工会議所がアンダーセン空軍基地跡地利用案として都市型訓練施設誘致をしていたのに、あえて沖縄に建設されている。基地を減らすどころか質的向上を目指している事を見るだけでもアメリカ軍の沖縄に対する感覚を如実に表している。アメリカ軍にとって沖縄はディエゴ・ガルシアみたいなものだと思っているのでしょうか。
 日米同盟に「起承転結」というものがあるとするならば、この稿はまだ「起」にすぎない。

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