ねえ不安になることない?ほんとうは踊らされてるんじゃないかって
昔は自分をトロフィーとしての価値を最重要視して言いよる人をみるとそれはたいそう心の中で怒り狂っていたものだったし、嫌で嫌でしかたなかった。
変わったことといえば、いまの相手はそういう心があったとしても、私の自由を奪わない限りはその欲望を満たすことに私の心は全く関与しません、つまりその存在を許すことができるということだ。
結婚が私と相手の契約なのではなく、私とそのパートナーが社会に対して契約する行為だということに気づいたのが婚姻届を出して3ヶ月経った頃だった。
全く相手を責めることなどできないが内心わたしの正直者のなにかが「騙された!!!」と思った。
いや、騙されたのは相手も同じことで、しかも騙してきた相手は、相手ではなく「社会」に騙されたのだろう。
慌てて検索してこのページを読んでなんだか納得したら、少し気が済んだ。
ちなみに夫にはこの話をしていない。してもしょうがないし、ここまでのことを望んで選んだ相手でもない。あくまで結婚という社会契約の流れに乗っかることを前提に互いに合意した相手としてふさわしいと思ったのにすぎない。
少なくとも私との夫の間で、ここまでの議論を求めるべきだとは思わない。
私も「社会」の利用者である。間違いなく。
日本国という集団で、戸籍制度のもとに教育を受ける権利を与えられ、親の扶養義務のもとに育ち、まぁその教育だって社会に役立つ人材を育てるための機関でしかないが、とりあえず一定期間の一定程度、かなり多くの人間の命や幸福の保証を形作ってきた諸制度の、利用者なのである。
この「社会との契約」という言葉が思いつくようになったのは、旧Twitterにおいて人を殺しては行けない理由は「社会契約説」により説明ができる」とするツイート(今はポストというのだっけ?)からであった。
結婚制度にたいそううんざりし、チャンスがあれば離婚をしたいと思っている(これは、パートナーと離別したいという意味ではない)。
戸籍制度は少なくとも現状から解体されるべきだとも考えている。
でも戸籍制度がなくなるべきなのかとか、家父長制度が本当にひどい制度だとか、そういうことを言いたいのではない。
個人の権利は、社会にとってこうも弱まりやすいという人間の心の仕組みが不思議で仕方ない。集団の流れというものは安心をし、思考停止のままその流れを強くすることができる。
このことを意識できている人がいったいどれほどいるか知る由もないし、また知ったからといってどうできるわけでもないが、本当はすくなくとも私の手に届く関わる人くらいは、その目線のことを知っておいてほしいというのが、こんなネットの片隅に書くしかない本音なのである。
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