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番外編:ヘーゲル以後の哲学/反哲学

ヘーゲル哲学は、完成と宥和の哲学でした。ヘーゲル哲学によって、国家と社会、哲学と宗教などなど、いわゆる理性と現実が一致し「歴史の終わり」に到達します。……といっても統一ドイツもまだないこの時代の現実は、そんなに甘くありません。今回は、ヘーゲル哲学を継承し、現代につなげたといえる人物を3人紹介します。

共通の背景

 ヘーゲル死後、実際にヘーゲルに学び影響を受けた人たちがサークルみたいなものをつくります(学派)。右派、左派、中央派といわれたりするんですが、それぞれから一人ずつの紹介ではありません。以下に紹介するのは全員、ヘーゲル左派が出発点です。左派という言葉の意味は、ヘーゲル哲学への批判を出発点にした程度で考えてOKです。
 そして、もう一つの共有の特徴が、大学からの解放です。今回紹介する3人は、基本的に大学教員ではありません。だからこそ、書けた本(言えた主張)であると考えてほぼ間違いないです。この時代の大学は、国家とも深くつながっているので、そういう意味では国家からも解放されているといえるんですが、その外にある哲学が現代まで続く意義を持っている(逆に言えば、当時はエリートといわれただろう大学での哲学が歴史の中で忘却されていく)のは、不思議なものです。

フォイエルバッハ:『キリスト教の本質』

 本の名前からだけでは、フォイエルバッハの哲学をイメージにしにくいと思います。キリスト教といってますけど、実質的には宗教批判で、すごく短くまとめると「人は神様(という概念)を通して人に働きかけている」という主旨です。もっとぶっちゃけていうと、神様なんていないし、考えるだけ無駄だよね、とやっとまともに言えるようになったのはフォイエルバッハのおかげでしょう。

人物・背景

 ヘーゲル左派の人たちのパターンですが、ヘーゲル哲学を学び、大学で教授になることを目指しました。具体的には、その手前の私講師(フリーランス)までいっています。ところが、匿名で出したキリスト教批判の本で、大学教授というキャリアの道は絶たれます。あとは、実業家の結婚相手に食べさせてもらっていた感じですね。
 キリスト教を悪く言うと……スピノザの時代は絞首刑とかでした。カントの時代も本を禁書にされたりしました。ヘーゲルは大学教授になる前は、キリスト教なんかなんぼのもんじゃい的な態度でしたが、教授になった後は、(小論理学の中で)「真の包括的な意味おける普遍は、人間の意識にはいるまでには数千年を要し、キリスト教によってはじめて完全に承認されるようになった思想である。」といったように、キリスト教にゴマを摺っておく必要がありました。ただ、大学の外でなら、キリスト教の悪口を言っても、嫌がらせを受ける程度ですむ時代になっていたということですね。

キリスト教の本質とは

 フォイエルバッハは、キリスト教を代表として、宗教は、フィクションを通して人間の役に立つためのものだ、といいます。ようするに宗教の本質は人間性だということですね。先に言っておくと、もちろんここにフォイエルバッハの限界があります。だいたい「本質」という言葉を使う人は、ここが限界点です。人間性について、それ以上考えることはありません。

フォイエルバッハの重要性

 とても簡単です。哲学は、神の存在証明とか、どういう性質(普遍性とか)が神とつながっているかとかのくだらない話をしなくてよくなりました。もし、いまだにこういうことで頭を悩ましている人がいるなら、一旦フォイエルバッハまで戻りましょう。その価値があります。
 あと、キリスト教(教会)にゴマを摺るための(現代の)読者にとってどーでもいいことを書かなくて良くなりました。こういう部分がなかったら、デカルトもカントもヘーゲルも、もっと読みやすかったと思うんですよね。

宗教批判のやり方

 フォイエルバッハは、ヘーゲルが歴史を大事にしたように、歴史的事実を取り上げながら、「神=人」の事例を積み上げていきます。さらに、(当時の)形骸化して、単なる習慣程度になっている宗教的作法や、逆に、実生活を営むにあたっては疎かにされている、キリスト教本来の教えを暴いていきます。今でいうキリスト教にまつわる「不都合な真実」といったところでしょうか。つまり、フォイエルバッハは、キリスト教をボコボコにしたのではなく、本来の意味からねじまがっている教会の教えや道徳への考え方をボコボコにしたんですね。そう考えたら、スピノザの汎神論とは全く違うアプローチだということは、分かると思います。
 フォイエルバッハとしては、歴史的哲学+経験的哲学による分析と特徴づけつつ、大学哲学(ヘーゲル哲学のことです)との違いとして、絶対精神のように、ただ考えられただけのものを対象にするのではなく、現実的な存在者(人)を対象にするんだ、といいます。「(私の哲学は)学校にはふさわしくないがしかし人間にはふさわしい新しい哲学の原理を含んでいる。」こんなかんじですね。
 とはいえ、実証主義のように歴史的事実を扱ったかは疑問ですね。どちらかというと、「神=人」の結論ありきの論述になっていると、思います。そういう意味で、原始キリスト教の修道士たちの生活に着目するフーコーやアガンベンとは、全く違う目で歴史を見ていますし、キリスト教ではなく、(人である)イエス・キリスト本人を見るということもしません。

この本は、人としてのイエスに迫った、世界最高水準の研究だと思います。

シュティルナー:『唯一者とその所有』

 前に紹介したヴィーコぐらいマイナーだと思います。知っている人でも、マルクスにボコボコにされた利己主義者ぐらいの認識ではないでしょうか。
 ただ、実際に本を読めば、別の印象を持つと思います。唯一者というのは、一人の人。その所有は、ようするに所有権ですが、これは国家が相手でも失われない権利の代表です。

人物・背景

 一発屋です。いや、本当にそうで、『唯一者とその所有』を出して、ヘーゲル左派界隈で有名になって、多少の論争を行ったあと、すぐに忘れられ、(すでに虫の息なのに)マルクスにトドメをさされた感じです。
 シュティルナーというのは、あだ名で、今でいう「おでこキャラ」程度の意味です。一発屋なので大学の職にありつけるわけもなく、結婚相手もフォイエルバッハほどには(経済的に)恵まれず、乳製品を売る仕事(ようするに歩合制のセールスマン)はうまくいかず、借金を理由に二度ほど牢屋にぶちこまれ、まさに貧困のうちに死にました。

ヘーゲル哲学の正統な後継者として

 本の要点は、紹介しません。もし興味があるなら、読むに値する本です。一点、フォイエルバッハとの関係性だけ、焦点を当てましょう。シュティルナーからすれば、私は《自我》を所有する。単純にそれでいいだろ、ということです。フォイエルバッハは、人は宗教を通して、私の真の《自我》を発見するといいます。真実の人間とか人間の本質などのような幻想的《自我》なんか、知るか! というのがシュティルナーの主張なんですが、すごくもっともだと思いませんか。
 そして、実は、ここに社会というものへの考え方の相違があるんです。哲学、あるいは広く学問にとって極めて重要なポイントです。ホッブズの時代では、個人と国家を考えていればよかったんです。カントにおいては、個人はとにかく理想化され、他方で国家は国際連合的な普遍性を求める対象でした。ヘーゲルにおいては個人と国家の間に、社会、あるいは市民社会が登場します。ヘーゲルが社会について初めて考えた人という意味ではないですよ。ただ、哲学上のテーマとしてスポットがあたったということです。もっとも、ヘーゲル哲学では個人とともに絶対的な国家に吸収合併(揚棄というやつです)される要素でしかなかったので、目立ちませんでした。
 シュティルナーが、ヘーゲル哲学の行き着く先といえる理由は、ヘーゲルが絶対化した精神を逆転させ、精神の材料であり、材料であるがゆえに(カントのように)無視することはできなかった個人を絶対化したからです。手法はヘーゲルと同じだし、登場する人物(キーワード)も同じ。結論だけ真逆。そして、ここがシュティルナーの真骨頂ですが、そのような個人から見れば、社会や国家など、権利侵害してくる邪魔者でしかないということです。
 特に、社会の方が身近な分、シュティルナーの攻撃対象になるわけですが、フォイエルバッハがいかにも言いそうな(というか言っている)人間性というものは、ようするに社会性のことなんです。社会の中で生きることが人間の本質とか、そういう話なので。それは、社会という名のもとに、個人を支配するための概念的道具だろ、と攻撃するわけですね。

アナーキズムの源流として

 フォイエルバッハとしては、色々反論があります。本によっては『キリスト教の本質』の最後の方にシュティルナーへのカウンター攻撃を載せているものもあります。この論争でどっちに説得力があるかは、経緯を知っている私たちからすれば、フォイエルバッハ寄りに読んでしまいがちですが、実際は、大部分的外れです(断言)。なぜなら、シュティルナーは、同時代に萌芽があり、直後の時代に哲学的にも一大潮流となるアナーキズム的な視点でものを考えており、現実的というより理想的だからです。そういう意味で、ドイツ観念論の正統な隘路でありかつ、アナーキズムの源流に位置する哲学者と言えます。

マルクス:『経済学・哲学草稿』

 そして、文字通り偉大なマルクスに至ります。マルクスについては、私から詳しく紹介することはありません(だって、すごく沢山の解説がありますからね)。先に紹介した2人との関係性だけ触れることにします。
 その前に、本のチョイスについて。経哲草稿は、マルクス死後に出された本ですが、初期マルクスの哲学的キーワードがほぼ出揃っており、草稿ながら、読みやすいです。
 ちなみに、マルクスも大学に所属していません。

味方:フォイエルバッハ/敵:シュティルナー

 ここまで、ヘーゲル左派と書いてきましたが、同じ集団を青年ヘーゲル派ともいいます。青年というのは、本でいえば『精神現象学』ということです。だから、現代でも『精神現象学』が大事にされるんですね。さて、マルクスは、(当時の現実であった)国家と社会の分裂は、再統合されるものであり、市民とブルジョワを和解させることができる、という立場を取ります。その際、フォイエルバッハの人間主義を味方にしました。一方で、シュティルナーは敵とみなしたわけです。利己的なだけの個人は、たしかに社会主義には合いません。ただし、さすがマルクスは懐が深く、シュティルナーの強調した個人(と私的所有)というものの重要性をしっかり吸収して、自分の哲学を鍛え上げていきます。そういう意味で、実際の敵は、一時共闘したアナーキズム(バクーニンとか)だったといえるでしょう。
 アナーキズムは、暴力沙汰を起こしたりした後、サンディカリズム(組合主義)の形でマルクス主義と再合流します。とはいえ、一つの哲学としては取り上げることはないでしょう。紹介することがあるとするなら、アナーキズムを現代に蘇らせたグレーバーについてになると思います。

さいごに

 ヘーゲルが哲学の終わりだったとすれば、ヘーゲル批判は、反哲学を意味します。そして、今回紹介した3人(とその同時代人)以外にも、反哲学を標榜する哲学者は今後も出てきます。その全てではありませんが、多くの場合、それが反大学哲学であったことは、覚えておいていいと思います。
 さて、次は大学に戻ってフッサール……と思っていたんですが、年代的にはニーチェが先ですか。じゃあ、また大学じゃない人だわ。


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