見出し画像

なぜ哲学は役に立たないのか(哲学と心理学)

今回は心理学と比較するかたちで哲学の一つの側面を整理します。もっとも、学術的な話じゃなくていつもどおり、ラフにいきますね。それで、なんでこのタイミングなのかというと、ポスト構造主義(哲学)の意義につながるからです。明確で、論理的な意義があるんですよ。それを説明しましょう。

心理学の概観

言葉の由来

「サイコ」っていったら、サイコパスとか、サイコキネシスとか、サイコフレームとかを思い浮かべますよね(断言)。サイコという言葉の語源はギリシャ語のプシュケーです。心や魂という意味ですが、その研究ということでpsychologiaという言葉が古くからあり、そいつを英語にして心理学(psychology)というわけです。

学問として

 学術的じゃないので、誰が創始者とかはおいときます。知りたい人は調べてください。ぱっと思い浮かぶのはフロイトかもしれませんが、彼のは精神分析学でしたよね。今でいう心理学の源流は、実はそのちょっと前にありました。
 哲学との関係ですが、心理学のルーツは哲学にあるといって、流れとしては間違いではないです。というか、単純に伝統的に哲学は心に関するテーマを扱っていましたからね。だから、学問としての心理学の成立は、どういう点で哲学と違うのかを強調するところから始まります。とはいえ、曖昧な時期も当然あって、例えばニーチェは、その著書の多くの箇所で自分の哲学の特徴の一つを「心理学」と言っています。もちろん、このときの心理学は今でいう心理学とは別のニュアンスです。「生理学」とかと並んで書かれていますしね。

心理学の広がり

 学問にしたので、これは心理学に限りませんが、まず大枠として「基礎研究」と「応用研究」に分かれます。後者の代表は臨床心理で、日本ではそういう資格もありますよね。派生して産業心理学とか経済心理学とか、挙げたらきりがないです。基礎の方でも、同じでパーソナリティ心理学(人格心理学)では個人を扱うし、社会心理学では社会を扱うというかんじです。

心理学/哲学のイメージ

哲学はダサい

 SNSのプロフィール欄に「心理学」って書かれているのを見かけます。哲学と比較して、ぶっちゃけ心理学の方がカッコいい(認知度が高い、関心を集めやすい、明るいイメージ)ですよね(断言)。哲学はダサくて、暗いイメージで、結果として話しかけることのハードルが高いように思います。まぁ、実際に哲学やっている人でややこしい人とか、ほぼコミュニケーションが成立しない人とか、いました。私の実体験ですが。それか、頭が良さそうというイメージもあるかもしれません(哲学でそういう感じのアイコンの人も多いです)が、結果は同じで話しかけることのハードルを高めているだけです。
 私自身については、哲学のそういうイメージの自覚はありますよ。それを払拭するためにできるだけラフにしようと努力していますが、それが足りていないという自覚もあります。ただ、私については頭が良くないという天性があるので、その点はアドバンテージですね。

心理学は人に好かれる

 心理学のイメージはさっき書きました。大事なのは心理学に興味関心があったり、学んだ人でコミュニケーションが成立しない人はほとんどいないということでしょう。ほんと、ここが一番大きな違いだと思います。

心理学は役に立っている(ポケモン風)

 心理学はどの対象に対してもほぼ、こうかは ばつぐんだ!が確定しており、条件が揃えば、きゅうしょにあたった!も狙えます。ただし明確に耐性のある人がいて、例えば非定型脳の人には、こうかがないみたいだ、と無力です。もちろん、いい意味で、そういう人たちのための支援の心理学もありますので、網羅的に役に立っていると言えるでしょう。

日常の側面

 そのように、人間関係であったりとか、もしくは認知行動療法とかがそうですが、自己管理などで、心理学の知見は役に立ちます。まー、〇〇効果とか、〇〇の法則とかいうやつですよ。認知行動療法は自己啓発的に使われてたりしますね。本来はもっとレベルの高いものなんですが、世俗化とはそういうものです。

ケアの側面

 あと、なんといってもケアですよね。子どもからシニアまで、心の病をケアする技術、知見が心理学にはあります。ただ、臨床心理を学んだ場合の最初に教えられるであろうことですが、あくまでケアであって、問題の根本解決には手を出さない(それが専門性だ)という線引もあります。まぁでも、医者もそういう側面がありますからね。別に心理学だけの特徴ではない。その線引の気持は良く分かります。問題の根本を解決してしまったら、お仕事減っちゃいますもんね。学問として成立させる非常に重要な側面は、マネタイズですから(この辺りを詳しく知りたい方は、ラトゥールをあたってみてください)。

経済活動の側面

 さっき書いたマネタイズではなくて、企業においても心理学は大活躍しています。マーケティングの分野や従業員のエンゲージメントなどですね。これがまた、面白いように成果が出るんです。だいたいうまくいく。最高に役に立ちます。

心理学は虐殺器官

 はい。こっからがこの記事のハイライトです。

支配のための道具

 役に立つってこと、そして割と簡単に成果につながるということ、すなわち人(他者/自分)をコントロールすること、心理学はその道具です。道具ですから使い方次第で、悪いことにも当然使えます。
 最近だったらカルトの勧誘手法にふんだんに活用されていることがネット記事で取り上げられることが増えていますかね。でも、カルトだけじゃないですよ。マルチ商法とか、詐欺的な金融商品、不動産セールストークとかにも使われるし、「これがまた、面白いように成果が出るんです」(二度目)

※すごく分かりやすくまとめておられる記事を紹介します

 でもね、従業員のエンゲージメントというのも考えもので、それは他者の思考/行動のコントロールなんだから、ようするに支配でしょ。そして、サイコロジカルな拘束は、フィジカルな拘束よりも、より深く強く人を拘束するものです。わざわざサイコロジカルってカタカナで書いたのは、流行りの心理的安全性(サイコロジカル・セーフティ)その名に反して、虐殺器官になっている場合もあることを示唆するためです。
 なぜ「深く強く」なのかというとそれは、自分からそうするからです。ビジネスシーンで使われる自発性って、多くの場合この意味ではありませんか? そういうのを自発的隷従というんだと思いますよ。

ケアとセットになることによる全体性

 そして、広域をカバーするまで発展した心理学は、そのような支配に疲れた人を癒やし、(物理的な場所は違う場合もありますが)もう一度、そのフィールドに復帰することを支援します。さっきは、皮肉でマネタイズの側面に触れましたが、構造的に重要なのはこっちです。心理学は支配のフィールドを破壊しません。むしろ、それを守り、支えます。そうすることで、外部がなくなるのですが、それは即ち全体性が構築されているということです。私個人は、率直に言うとこの点に対して嫌悪感があります。ただ、臨床心理の方でこの点に疑問を持たれている方がいらっしゃることは知っています。だから嫌悪の対象は個人というより、総体、あるいは社会構造の一部としての心理学ってことですね。

ワクチンとしての心理学(の知見の利用)

 そのような全体性に対抗する手段(道具)を心理学に求める人がいます。つまり、カルトや詐欺に騙されないため、あるいは支配の言説を(個人レベルで)ブロックするためにあらかじめ相手の手の内を知っておくという使い方ですね。これはワクチンのような使い方といえるでしょう。
 このような心理学の知見の使い方はおすすめですよ。ただ、正直、頭の良い人しか、この使い方はできませんけど(そしてあくまで私の経験則ですが、そういう人はプロフィール欄に「心理学」と書きません)。あの……書いている人をディスっているわけではないですよ。だって、私の個人のプロフィール欄にはしっかり「心理」の文字がありますからね。「学」は入ってませんけど。

哲学は役に立たない

哲学も虐殺器官になりうる

 哲学だってそういう悪いことにも使えるといえば、使えます。というか心理学と分かれる前は、心理学を含んでいたのですから、過去にはきっと虐殺器官だったでしょう。また、どうしたってハイデガーが代表になっちゃいますが、思想先導の役割を担うこともありました。
 が、私が「哲学は役に立たない」と書くときの哲学とは現代の哲学です。少なくともポスト構造主義以降です。

ポスト構造主義が非生産的である理由

 ポスト構造主義は……無意味に難し過ぎる。難しいのを頑張って理解したけど結局意味のある結論はなかった。そもそも、理解できずに遭難する。と言われます。ソーカル事件もありました(詳細にご興味あれば検索してみて下さい)。ただ、あれは、哲学はエセ学問である――正確には、学問的な査読が機能していない、ということを示しただけです。いや、もちろん、査読は機能した方がよいというのは賛成ですが、今から書くこととは関係ないということです。
 ポスト構造主義の現代的意義は、哲学が虐殺器官であったことの自覚と反省、および哲学理論・体系の中に虐殺器官になってしまうことを回避するセーフティロックを内蔵しようとすることです。結果的に「理論・体系」であることを放棄してでも、それを内蔵するという決意です。その結果は、現実に表れています。哲学は、カルトや詐欺の手口で利用されていません。できないように作られているからです。
 「だから、難しいんです」というは、正確ではありません。そもそも、簡単である(分かりやすい)ことと、役に立つこととは強い相関関係があります。それを踏まえて、ポスト構造主義の目的はあくまで虐殺器官にはならないこと(言い換えると心理学とまさに逆である、支配のフィールドを破壊すること)です。ポスト構造主義の一部の哲学者が「生産とは支配のことだ」というニュアンスのことを言うのは、こういった背景があるからなんですね。

以上です。で、記事は終わっていたのですが、レヴィナスを読んでいてありゃ!? となったので短く引用……

今や私たち西欧人にとっての真の問題は、暴力を忌避することであるよりもむしろ、暴力に抗する闘争について考えることであって、暴力に対する闘争は、――〈悪〉への無抵抗のうちで萎れることなく――この闘争それ自体に発する暴力の制度化を避けうるものでなければならない。

『存在の彼方へ』6章

 硬い文章ではありますが、内容はとても簡単で、「問題は暴力の制度化を避けうる(虐殺器官であることを回避するセーフティロックを内蔵できうる)」って意味です。あと、暴力を忌避するわけじゃないというのは、支配のフィールドを破壊しちゃうよ、ということでもあります。

もしサポート頂けましたら、notoのクリエイターの方に還元します