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[読書ノート]23回目 3月7日の講義(第一時限)

講義集成13 1983-84年度 243頁~273頁

今回のまとめ

  • キュニコス主義の学説はほとんど残ってない

  • 生のための教育と武装

  • まぁた、革命かよ

 今回の講義の大枠は、古代のキュニコス主義の歴史を検討することが困難である理由(4つ)の紹介と説明です。しかし、読み取るべきは、その説明のなかで抽出されるキュニコスの特徴とその意味です。つまり、読書ノート(特に見出し)の構造は4つの理由によって分けられますが、大事なのは書かれている中身と思ってください。

第一の困難

古代においてさえさまざまな態度や行動がキュニコス主義に属するものとして指し示されていた

 貴族グループの助言者としての哲学者、魂の助言者、政治的助言者として哲学者とキュニコス主義の人物が描かれることもあれば、全く別物である、街角の演説家とも描かれる。
 最も【対立を】見事に象徴しているのは、デメトリオス【が助言相手の】死【との関わるやり方】とペレグリノス【自身の】自殺に対する彼らの関係。トラセア・パエトゥスが皇帝によって自殺を命じられたとき、デメトリオスは完全にソクラテス的な様式のもとで魂の不死についての対談を行い(自殺を看取った)。対してペレグリノスは自らの死を一種の大いなる大衆的な祝祭として準備した後、オリュンピアの近くで焼身自殺した。
 このように非常に異なるいくつもの態度がひとまとめにされ、キュニコス主義という同じ特徴を持つものとして極めて広い範囲をカバーしている。それによって、典型的なキュニコス主義的態度とは何かを定義することが少々困難になっているということ。

第二の困難

キュニコス主義への(同時代的)態度の両義性

 キュニコス主義が大きく発達した紀元前一世紀から三世紀までの期間に、キュニコス主義に対して示された態度は【極端に】二つに分かれる。
 一つは、非常に多くの非常に激しい告発。例えば、キュニコス派は、粗野な者、無知な者、無教養な者であるとして非難される。あるいは、いわば本物のキュニコス主義の偽善的な模倣【ものまね、表面的な取り繕い】でごまかしているという非難。またそれらとは別に、キュニコス派が神々の法、人間の法、そしてあらゆる形態の伝統性ないし社会組織に逆らっているという事実(への非難)。
 ただし、どのようなキュニコス主義批判(者)であっても、真のキュニコス主義とされるものに対する好意的判断を伴わないものはない。
 (真のキュニコス主義にとって重要だったのは)哲学へと誘う動きは、教養にも教育や習得にも求められるべきではない――人はもっぱら自然によって哲学者であるのだ、ということ。(これは無教養のままとどまるということではなく)逆に多くの本を読み、哲学の諸原理に親しむが、さまざまに異なる哲学の最良の諸要素を互いに組み合わせようとする。そこに加えて、その文学的かつ哲学的教養を、身体的な忍耐力の鍛錬によって補完する。この忍耐力の鍛錬とは(古代の貴族の体育のようなものではなく)欠乏や苦痛に耐えることを可能にする身体的な忍耐力の鍛錬である。

普遍性と凡庸さ

 キュニコス主義の学説といえそうなものを辿っていくと(ヘラクレイトスを超えて)哲学以前のあらゆる人間たちにまで遡る。つまり、古さがあると同時に文化的普遍性があるということ。そして、この哲学を習得するために、特別な、あるいは専門的な研究を行う必要はない。つまり、基本的ないくつかの徳、誰もが知りうるし誰もがその訓練を行うことのできるようないくつかの徳を実践するだけで、キュニコス主義の核そのものを構成するのに十分である。
 徳の実践にかかわるある種の基本的な核を既存の哲学のうちの一つひとつから抽出するだけで、最終的に生存のキュニコス主義的方式を身につけるためには十分であるということ。この点においてキュニコス主義は、哲学における普遍的なものとして現れると同時に、おそらくはその凡庸さとしても現れる。

第三の困難

キュニコス主義的生の伝達は、言説なしの訓練と習得の道と通ってなされる

 キュニコス主義についての理論的なテクストは極めて少数しかない。そもそも学説の骨組みは、完全に未発達のものであったように思われる。確認できる事実として、キュニコス主義は、一方では、広範にわたって社会に定着した哲学であったということ、そして他方では、偏狭で窮屈で初歩的な理論的骨組みを持つ哲学であったということがいえる。

生のための武装

 制限され、貧しく、図式的な学説の骨組みを持っていること、持たねばならないことについてキュニコス派は理由を明言していた。その理由は、哲学的生についての、そして哲学教育と哲学的生とのあいだの関係についての彼らの考え方そのものにかかわっている。
 キュニコス派にとって、哲学教育の本質的な役目は、知識を伝達することではなく、教育を施すべき個々人に対して知的かつ道徳的な鍛錬を与えること。個々人を生のために武装させ、それによって出来事に立ち向かうことができるようにすることが問題だった。教育を、知識の総体の伝達とみなすのではなく、生のための武装の伝達とみなすこの考え方は、ディオゲネス・ラエルティオスが(以下に)一つの例を差し出している。

ディオゲネスによるクセニアデスの子供たちの教育に関する伝説

 【犬の方の】ディオゲネスはクセニアデスの子供たちにあらゆる学問を教える。ただし、彼らがよりたやすく覚えられるようにするために縮約し要約したかたちで学ばせる。つまり、学問の発展の全体が学ばれるのではなく、しかるべきやり方で生きるために必要かつ十分であるような本質的諸原則が学ばれるということ。
 こうした教育が、忍耐力の習得のようなものによって補完される。クセニアデスの子供たちは、自分のことを自分で行うことができなければならなかった。つまり、彼らは従僕[たち]や奴隷[たち]に頼ってはならなかったということ。これは非依存の習得である。また、狩りも教える。これは自給自足を実践することを可能にするもの。忍耐、闘いの習得、生存のために与えられた武装というかたちでの習得、これこそが、キュニコス主義的教育を特徴づけるものである。

 キュニコス主義的教育とは生のための教育であり武装であるという、こうした考え方はセネカの『恩恵について』でも見いだされる。
 (キュニコス派が次のように語るのはもっともなことだ。)すなわち、手の届くところにあって活用できる数少ない賢明な教えを知ることの方が、すぐに使うことのできない多くの教えを学ぶよりも有益である。巧みな闘技者とは、闘いにおいて稀にしか使用されることのないすべての姿勢やすべての複雑な動きを徹底的に学んだ者のことではなく……闘技者にとっては、多くを知る必要はなく、勝利するために十分なだけ知っていればそれでよい。これと同様に、我々の研究【当時は自然学等を含む哲学】においても、多くのことが我々の興味をそそるとはいえ、勝利を保証してくれるものはごくわずかにすぎない。

キュニコス主義が退けるもの

 (ディオゲネス・ラエルティオス【が書いていること】を信用するなら)キュニコス派の人々は、哲学の領域から、論理学と自然学を追い払っていた。彼らが本当の意味で哲学的な学科であるとみなしていたのは倫理学のみだった。
 また、彼らが教えていたもののなかから、幾何学と音楽が退けられていた。【犬の方の】ディオゲネス曰く、「人間が生を治め家を治めるのは、賢明な思考によってであり、竪琴の響きや笛の音色によってではない。」

ここで幾何学と音楽がセットであるのは、竪琴とあるように、弦楽器と幾何学(を含む数学)は密接だったから、でいいと思います。それよりも大事なのは、音楽……あるいは音律を退けるというのは、非西欧における伝統的な知の伝達方法として採用されている手段(そういう意味における「宗教」)を退けているということですね。もしくは、西欧に内在したとしても、いわゆる「文化」的なものを退けているとも言えるでしょう。

 そして「自然」において知ることが困難もの――たとえば、何が嵐を引き起こすのか、あるいはなぜ双子がいるのかを知るのは、無益なことである。それを知るのは非常に難しいことだろう(隠されている)が、なぜならばそれは何の役にも立たないからだ。それに対し、生存にとって必要なもののすべて、キュニコス主義的生をなすべきものとしてのあの闘いにとって必要なもののすべては、万人に手の届くところにある。

これは後に「科学」に分類されるような知を退けていると読んで問題ないと思います。

長く理論的な教育を省いた徳への近道

 実践的教育としてのキュニコス主義的学説は、徳への近道であり、手短な道であるとキュニコス派自身が非常しばしば繰り返す特徴であった。

キュニコス派が示す二つの道

 一つは、たいした努力を要求しない比較的容易な長い道であり、言説ロゴスとその習得(学校における学説の習得)を通じて徳へと至る道。
 もう一つは、短い道があり、これは困難な道、多くの障害と引き換えに頂上に直接伸びる骨の折れる道、そしてある意味【ひとつはロゴスを用いないと意味】において無言の道。訓練アスケーシスの道、簡素化と忍耐の実践の道。
 キュニコス主義的生の伝達は、本質的に、(言説そのものよりもはるかに効果的な)言説なしのその短い道、訓練と習得の道を通ってなされるものであった。

第四の困難

逸話・冗談・回想

 キュニコス主義は、かなり特殊な伝統性の様式を持った(ことで学説としては消えてしまった)。行動様式の諸々のモデルや態度の諸々の母型を経由していたキュニコス主義的教育のそうした伝統性は、短い逸話クレイアイ――一定の状況におけるキュニコス派の身振りや返答や態度を報告するもの。あるいはその派生で、滑稽で、アイロニカルな冗談パイグニア。もしくは、それらよりも長いものでキュニコス主義的生の一つのエピソードをまるごと語る回想アポムネーモネウマタなどで伝えられた。

学説の伝統性

 プラトン主義やアリストテレス主義のような哲学的学説の伝達にとって重要だった伝統性とは以下のようなものである。古代においてそれは、忘れ去られ見誤られている思考の核を再活性化しようとするものだった。そしてそうした再活性化は、その思考の核を、最初の思考との可変的かつ複雑な同一性と他性の関係のなかで自らを差し出す一つの思考の出発点とし、その権威の本源とするためになされたのだった。

生存の伝統性

 (キュニコス主義が実践した)生存の伝統性が目標として定めるのは、原始の思考の核を再活性化することではなく、生の諸々の要素と諸々のエピソードを思い出させることである。そのような要素とエピソードが、今こそ模倣すべきものであり、再び存在させなけれならないとされるのは、(学説の伝統性のようにそれらが忘れ去られてしまっているからではなく)今日において、もはやそれらの実例に比肩しえないから――堕落、衰弱、退廃によって、同じことを行う可能性を失ってしまったと考えられるからである。

 図式的には、学説の伝統性は、忘却を越えて、一つの意味を保持したり留め置いたりすることを可能にする。これに対し、生存の伝統性は、道徳的衰弱を越えて、一つの行いの力を復元することを可能にする、と言える。

哲学的英雄という形象

 旧式な伝統に属する賢者――神的人間――と、古代最後の数世紀における修徳主義者との【歴史的、時間的】あいだで、キュニコス主義は、最も一般的で最も未発達であると同時に最も骨の折れるものとして自らを示すような(実践的母型として)哲学的英雄性の形態を体現した。
 これによってキュニコス主義は、その理論的貧しさにもかかわらず、生の諸形式の歴史においてのみならず思考の諸形式の歴史においても一つの重要な出来事となったのだ。

現代の英雄

 倫理および英雄性としての哲学の歴史は、よく知られているとおり、哲学が教師の仕事となって以来【過去の記事ではカントがその最初の例と示しました】、つまり十九世紀の初め以来、そこで終わってしまうと言えるかもしれない。しかし、その終わりの時期――哲学的生、哲学的倫理、哲学的英雄、哲学的伝説がもはや存在理由を持たなくなり、哲学がもはや諸学説の歴史的な総体としてしか受け取られなくなるその時期は、哲学的生の伝説がその最高かつ最後の文学的表明を受け取る時期でもある。
 これはもちろん、ゲーテの『ファウスト』のこと。『ファウスト』は、哲学的伝説の究極的な表明である。そして、ファウストが退場するとき、哲学的英雄性のその歴史が再開されることが――ただし、全く別の形態、ずらされた形態のもとで望まれるかもしれない。つまり、(英雄は)政治的領野のなか、すなわち革命的生のなかに、自らの場を見出すことになるだろう。

今回は以上です。次回は、いまさら感がありますが、大事なこと――「真なる」とはどういうものかの考察から始まります。

私的コメント

 今回も(邪魔だったかもしれませんが)【 】による補足や注釈で、読解上のフォローをしたつもりです。最後のくだりは……まぁ、フーコーはそう思っているということで、一旦いいでしょう。
 コメントとしては、次のことに絞りたいと思います。『武器になる哲学』という本があり、それなりに売れているそうですね。私は友人が(読んだことではなく買ったことを)自慢してきた際に、目次を中心に少しだけ拝見しました。したがって、中身を読まずにコメントしているのを前提にしてください。
 端的に、今回の「生のための武装」以降の特徴と比較して、どうなんでしょうね! 好意的にみれば、単なる歴史的学説を並べているわけじゃない(時系列じゃない)、「稀にしか使用されることのないすべての姿勢(内容)やすべての複雑な動き(解釈)」ではなくテーマが絞られているように見えました。逆に、良くない印象としては、すぐに使える(思い出せる)数は超えているなとか、実際の文章の中には「我々の興味をそそる多くのこと」についていろいろ言及してしまってるよねとか、ぶっちゃけ二択で言うと「たいした努力を要求しない比較的容易な長い道」(学説の道)の方に分類されるよね……と、パラパラめくりながら思いました。
 もちろん、「武器になる」というのは比喩の一つでしょう。しかし、キュニコスも同じ意味で(つまり、比喩でありかつ実践的現実として)「闘いにおいて」という以上、どっちが役に立つかを知る最短の方法はガチンコバトルでしょう。一見、アドバンテージは『武器になる哲学』の方にあるように思います。なんといっても、現代の成果物なんですから、参照できる知識や研究の量や質(完成度)が違います。ところがまさに今回話題になったように、実戦で勝敗を分けるのは知識の量や質ではありません。急所に一撃クリティカルをいれる最小の洗練された動作です。ようするに、勝つのはキュニコスでしょう(この記事を書いているのだから、この種の肩入れは私の意見というより構造的なものです)。最も大きな違いは、フーコーの整理を信用するなら、骨の折れる修練の強度と時間だろうと思います。

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