雑記:アナキズムについて

アナキズムの理想的イメージの一つは海賊です。

イメージと言葉の整理

 アナーキーというと、皆さんはどういうイメージを持たれるんでしょうね。世代によっても違うかもしれません。セックス・ピストルズとか……ふるいですかそうですか。
 まぁ、そういう歴史的経緯は追いません。ざっくりいきます。まずイメージですが、海賊でいいと思います。ONE PIECEとか、キャプテン・ハーロックってことです。その……私はどっちもよく知りませんがそういうことです。ルフィは、別に海賊の王になりたいんじゃなくて、アナキズム的な国をつくりたいん、ですよね? 
 「アナキズム」という言葉は、「非-」「支配」と書いてあります。したがって、可能な限り支配/被支配関係のない集団をつくろう、というのが基本的な考えだと思ってください。
 そして、その具体的な手段や実現方法については時代時代や状況によってさまざまです。いわば基本からの派生なんですが、手段や方法ゆえに、こっち側の方が印象に残りやすいのかもしれませんね。
 ちなみに、色――イメージカラーというのは、基本、黒です。革命のイメージカラーは赤なので、その点でも、違います。海賊のドクロは黒旗でしょ。

無法者というイメージ

 これは、ある意味で中核です。正統的な法の統治の外にいるということです。ただ、どういう集団に属するかにもよりますけど、その集団の中でのルールはありますよ。つまり、完全にルールが通じない暴れん坊のことではないです。

可能な集団のあり方

 歴史的に実際にあったアナキズム的集団について、興味がある方は「アジール」や「無縁」について調べてみてください。
 ここでは個別に説明するより全体的な特徴に触れます。まず、基本的には大きな集団にはなりにくいです。つぎに、非支配ですから当然ではありますが、平等です。そして、出入り自由(来る者拒まず、去るもの追わず)。大きくはこんなところでしょうか。「去るもの追わず」というのは、わりと特徴として際立っていて……えー、そうですねぇ……忍者集団とかマフィア(これらも相互扶助で非国家的な集団です)とかだと抜けるのが大変か、もしくは裏切り者として追われることになりますが、そういうのがないってことです。

意思決定について

 これも基本でいえば、全会一致。あるいは指導的立場にいる人の決定への全員の賛同です。
 アナキズムが面白いのは、地縁や血縁、さらには(盲目的/強制的)忠誠心といったもの無しの強い仲間意識です。一人ひとりは別々の信念を持っているかもしれませんが、集団としての意思決定については、その集団に属する限りコミットするんですね。だから、プロの犯罪者チームとかも、「一時的な」アナキズム的集団と言えるかもしれません(オーシャンズとかです)。
 イメージしやすいものをつらつら書いているので(小見出しとはズレていきますが)、海賊とか犯罪者を挙げてますけど、「無縁」とかだとお寺もそうですからね。つまり秩序の破壊者ではなくて、正統的な秩序でない秩序ある人達と思ってください。ただし、力/暴力は、お寺であっても伴います。なぜなら正統的な集団(権力)から自衛する必要があるからです。言い換えると、絶対平和主義ともっとも遠いところにあるとも言えます。
 さて、意思決定に話を戻すと、具体的には今でいう「ラディカルデモクラシー」が一つの選択肢としてありえます。これが(多くの場合正統な集団で採用されている)デモクラシーとどう違うかは、話が長くなるので割愛しますが、例えば、ローティが絶賛するように伝統的にフェミニズムによって洗練されてきた意思決定の方法という経緯があります。
 そして、カンのいい方はお気づきかもしれませんが、これが規模が一定以上大きくできないことの主な理由です。

アナキズムと民主主義

 少なくとも(中世のアジールではなく)現代においてのアナキズムは民主主義以降のものです。思想運動(潮流)としては意外と若いんですね。
 そして、現代的意義はあるかというと……まぁ、過去記事にあるので端的に答えるなら、「ないです」。民主主義が時代遅れなんだから、(アナキズムが採用する平等の原理や意思決定の手段の雛形は)それらとともに過去の遺物に、なります。

あらためて現代的意義

 これらのことを踏まえた上で、アナキズムに現代的意義を見出そうとするならば、まず民主主義的な部分をパージする必要があります。たしかにアナキズムにとって民主主義的な特徴は中核でした。でもそれらは採用できません。ということは、マルクスと同時代の思想運動としてのアナキズム(人の名前でいえば、プルードンやバクーニン、クロポトキン、ましてルクリュなど)は参考程度にしかならないということです。むしろ、そのようなアナキストの源流にいる人物としてシュティルナーについて過去記事で言及しました。こっちの方が、現代に繋がりうると思ったからです。
 しかし、アナキズムは、民主主義の中の一小項目ではありません。原点にかえりましょう。非−支配――支配関係でない集団の統治。これがアナキズムの現代的意義です。

 ここから先は、私がnotoでやっていることとのつながりになります。
 一つ。アガンベンの(資本主義的「消費」に抗する)「使用」の概念は、共同体としてのあり方とともにアナキズムの観点から検討されうるでしょう。
 一つ。フーコーが晩年テーマにした「パレーシア」は民主主義的意思決定に抗する意思決定、および統治のあり方として、アナキズムの一つの道を示してくれると思います。
 いずれにせよ、アナキズムは単体では哲学ではないです(アナキストたちが思想家であったことは否定しません)。だから、「哲学者紹介」で取り上げることはないです。さらに言えば、「番外編」扱いでも取り上げないでしょう。先に挙げた人物の当時の事情なんて、知ってもほとんど価値がありませんからね。
 グレーバーは、何度か名前を出している、現代的水準で最も有意義なアナキスト的思想家ですが、現代人すぎてまだ過去の人のようには総括できません。やるとしたら書評(かライトに読書感想)ですが、目下(というか今、物理的に足元に)読むべき本が二冊あるので……まぁ、皆さんのニーズしだいですね。私以外に紹介している人も多いでしょうし、べつにいいかな。

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