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ポケット・チェーンソー・ペルソナ

 今回は「権利」という概念がもともともっている排他主義的性格と、分割装置=虐殺器官であるペルソナという装置について考えてみます。簡単に言うと、差別をつくる装置についてです。

世界的なヒットシリーズ:ポケットモンスター

 導入の語りです。私は初代ポケモンをリアルタイムで遊んだ世代です。赤・緑、それから青も黄もやりました。当然151匹コンプリートしましたよ。ただ、当時は漠然と……ある程度の年齢になってからはそこそこハッキリと疑問に思っていることがありました。「そこそこ」というのは、一つの文章にまとめきれないからですね。例えば、野生のポケモンと捕まえたポケモンは何が違うのか。あるいはモンスターボールとはなんなのか、などなど。

もしわれわれが野生のポケモンをモンスターボールでゲットするならば、こうしてゲットされたものはただちにわれわれのものとなり、さらに、われわれのものであり続けるように保たれ、われわれの管理下で養育されるようになる。

エンゲルハート『バイオエシックスの基礎づけ』朝日出版社、1989年[もちろん一部改変]

 ポケモンは、アニメや映画でもヒットを出し続けるコンテンツですが、ポケモンの中には人語を操るものもいます。モンスターボール(およびその派生物)というもので捕獲されると(完全にいうことをきくかどうかの条件こそあれ)所有物になる、動物でも人間でもない、一応名称としては「モンスター」それがポケモンです。「管理下で養育」について、ポケモンにおいてレベルアップが単なる成長でないのは(俗称らしいですが)努力値というマスクデータを含めて養育されることであり、各種ドーピングや「わざマシン」という装置での書き換えが行われるということです。この、明け透けな理不尽が根幹であるゲームは、後追いの類似品の追随をもろともせず、むしろ常にそれらを駆逐しながら不動の地位を確立しているように見えます。
 理不尽、不自然はたくさんあります。なぜポケモントレーナーは手持ちのポケモンを闘いに駆り立てるのか(スタンド戦のようにトレーナー攻撃した方が早いとはなりません)。闘いの敗者はお金を巻き上げられはすれ、ポケモンを奪われるということはない(これはトレーディングカードとの違いです)。
 結論を一部先取りすることになってしまいますが、ポケモンとは、ようするに、私たち人間です。正確には、人格が付与されていない状態の普段の私たちです。

人称代名詞と所有

 私、われ、自分――これらは一人称です。あなた、なんじ、君――これらは二人称です。詳しく説明しませんが、一人称と二人称は基本的に同じものです。話が通じる、交換可能である、対等である……などが挙げられますが、形式的には同じ権利を持っている――そういう意味で同じものということです。
 したがって、一人称だけ考えればいいのですが、「私」というのは、突き詰めるとなんなんでしょうか。それは、所有者だということです。私は私を所有している――これは正常な状態で、私が私を所有できていない――これは統合失調症なりパーソナリティ障害なり、なんなりに分類されて、(しばしば入院をともなう)治療の対象になります。しかし、私が私を所有するというとき、一つ目の「私」と二つ目の「私」は同じものではありませんよね。「私」を二つに分割する装置、それが人格ペルソナです(パーソナリティという言葉はそれの派生です)。
 この種の分割は、もちろんアリストテレスを起源にしますが、今回はちょっと哲学から離れ気味にしましょう。

ペルソナ装置の系譜学

人権の話法

 系譜といっても、比較的現代に近いところから始めましょう。ナチズムの生−死政治が片方にあります。そしてその明白な反転を代表するのは標準的なリベラルの生政治です。この違いは際立ったものですが、共通点もあります。生の生産的管理。この共通点は、周辺的手段的なところのものではなく、残念ながら中心的目的的なところ――簡単に言うと、根は一緒ということです。
 ナチズムの場合、分割は(科学的なエビデンスをともなった)人種や階層化された民族の間にありましたが、リベラルの生政治(私たちの自由主義)では個々人の内部にあります。それが、人格である私と、モノとしての私です。そして人権というのは(これについても哲学的な説明は控えます)人間をモノ扱いする――そういう横すべりを防ぐための概念でしたが、人権を定義するのに、あろうことかペルソナの言語を使いました。結果として、横すべりが惹き起こされるのですが、大事なのは、ペルソナの言語がきちんと機能していないからではなく、機能しているから横にすべるということです。したがって、言葉の厳密な意味でペルソナ装置は、虐殺器官ということができるでしょう。

リベラリズムによる並置

 人間は、一方で「意志」や「理性」といった用語で定義づけられ、他方(個人の内部としては)身体および理性以外の心は管理されるモノとなりました。この分割に対して典型的なリベラリスト(ロックやミル)は、すぐに所有のカテゴリーを並べて配置します。「各人は……自分のペルソナの所有権を持つ」(ロック)「自分の身体および自分の頭脳に関して、個人は主権者である」(ミル)――こういった具合です。これが、私が私を所有していることなんですが、それは、ポケモントレーナーがポケモンを所有していることとよく似ています。

自発的隷従

 自分(主体)が、自分(モノ)を所有する。ペルソナによるこの分割によって、人は「自発的に隷属」することができるようになります。むしろ多くの人はそうすることによってこそ日々の糧を得ています。なぜ人は自ら望んで隷属するのかということは、何度も問われてきました。ボエシの『自発的隷従論』はその古典といえるものでしょうし、ドゥルーズ=ガタリは「(『アンチ・オイディプス』の目的は)欲望する主体の中でいかにして欲望が自分自身の抑制を欲望することになるのか、明らかにすること」とも言っています。よく「器官なき身体」がその解決(戦略)として挙げられますが、その意味を理解するのは難しくないはずです。つまり、虐殺器官のない=ペルソナ装置を機能させない=分割されていない身体を取り戻すこと……程度の内容でしょう。ロルドンの『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷"になるのか?』は広く読まれてよい本ですが、(フランス人なのに)ペルソナ装置の機能を見逃しているのは残念だと、個人的には思っています。

悪魔との契約:チェーンソーマン

 デビルハンターの多くは、悪魔と契約します。その際差し出すのは、身体の一部だったり、一定割合の寿命だったりします。なぜ、差し出すことができるのか。それは、それを「所有」しているから、が前提になっています。能力行使に追加の身体供与の必要がある場合、失いすぎると当然そのデビルハンターは死ぬことになりますが、死に至るまで所有物を差し出すのは、それを所有している人格です。つまり人格ペルソナは、自らの所有物に根本的に結びついている(失いすぎると死ぬ)ものの、概念的には決定的に分割されているものです(逆に、死に至るまで命令することができる)。
 あらゆる物語にいえることですが、もしそういう世界だったとき自分だったらどうするかを考えるのは楽しいものです。私の場合、悪魔と契約するようなことがあれば、是非私の人格ペルソナを提供したいものです。そうしたとき、私は全てを失うかもしれませんが、もしかすると、何も失わないで、強力な力を得るかもしれません。(私はアニメしか見ていないので、馬鹿げた推測なのかもしれませんが)あるいは、マキナ[機械]がそれなんでしょうか。

非人称である三人称

 バンヴェニストというフランスの言語学者については、これまでの記事で「中動態」に言及するときに名前を挙げてきました。言語学者ですから、言語について広範な研究を行っていて、エスポジトはバンヴェニストの三人称についての分析に注目します。

誰でもない/誰でもある

 三人称は、不思議な特徴をたくさん持っています。英語の授業で必ず習うであろう、it rains(雨)というのは客観的な出来事であって、主体を欠いています。これは非主体的な人称ではなくて、非人称的な人称であると考えられます。つまり、三人称は、客観的なタイプの外的な指示対象へ送り返すのですが、それが送り返すのは、何かであったり、誰かであったりします。ところが、この「誰か」の場合でも、実際には誰のことも指していないか、もしくは誰にでも拡張されるもの(特定されない人)です。だから、三人称は、「まったく人称でない」と「あらゆる人称である」の両方なのです。
 一人称(=二人称)との比較でいうと、それらが主体の人称的な同一性を持っているのに対して、三人称は、そのような同一性がつねに欠けているとも言えます。したがって、三人称は、単に非人称的な人称であるだけでなく、非−人称ノン ペルソナを表す機能を持っていると、言われます。

単数=複数

 また、三人称は単数でも複数でもない、あるいはそのどちらでもある、ということも特徴的です。このことについては、むしろ一人称=二人称について考えてみると分かりやすいかもしれません。言語学の言葉を使わないでも、次のことは感覚として分かると思います。つまり、「私たち」とか「あなたたち」というとき、それらは実質的に複数的なものではないです。「私」や「あなた」の単なる膨張で、それは複数化じゃなくて、集合的な人称です。
 そうだとすると、複数をもつことができるのは三人称だけということが分かります。三人称は、たとえ単数の形だったとしても(むしろ単数のときにこそ)、無限定な全体を表します。

セーフティロックとしての三人称

 三人称が非人称であること。ペルソナ装置を機能不全にできること。その内容については、(そういうものがあればですが)機会を改めたいと思います。権利についても、それを三人称で構成することが目指されるべきとも言えるでしょう。いずれにせよ、私は(様々な言説の形を取りうる)虐殺器官にセーフティロックを組み込むことができるのは、三人称(の哲学)だと思っています。
 アガンベンは「非の潜性力」という言葉で、諸装置を働かなくさせることの重要性を述べるのですが、所有(権)に対して『身体の使用』という(一種の黙示録)も、三人称の哲学と組み合わせることで、可能態から現勢態への道筋を得ることができると思います。
 逆にネグリは「マルチチュード」が、それがそもそも複数(多数)であることによって、三人称の複数性とその(ブレーキ的な)機能をすっ飛ばしているように思います。彼が楽観的であることは悪いことではありませんが、セーフティロックがかかっていないがゆえに、反対しようと思っていた、まさにそのものに横すべりするかもしれないことに対して注意するだけで、機能的な対策を組み込めていないといえるでしょう。

さいごに

 あくまで直近の記事から考えたとき、今後のテーマの候補になりうるものとして、エスポジトやアガンベンの源流の一つである、ヴェイユが挙がります。彼女がトロツキーと同時代人(というか一時かくまっていた)というのも興味深いところです(対比するならローザ・ルクセンブルグなどは随分霞んで見えます)。バンヴェニストは……やるとしたら、かなり大仕事になるでしょうね。言語学の素養がほとんどないですから。できれば、避けたいですね。そして、一貫して西欧哲学を扱ってきましたが、三人称の哲学に至ってはじめて、ある日本のテクスト、日本の哲学者にアプローチする準備が整ったと思っています。それは花崎皋平さんです。彼の(主に日本の哲学・思想研究を軸とする)テクストは、私のこれまでの記事と直接的接点が無いのですが、きわめて原理的なところで重要な示唆を得ることができると思っています。


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