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排除する/排除される人たち:人生観・労働観の変化についてのメモ

自分の人生をどのように生きていくか。多くの人にとって人生の中で大きなウェイトを占める仕事をすること(労働)についてどのように考えるか。その中身は当然、時代とともに変わっていきます。この記事では、哲学的な視点から若干の情報整理をしてみます。経済や政策の専門家ではないのであくまでラフなメモです。

変化の要因について

 時代とともに変わると書きましたが、変化の要因の幅は非常に広いと思います。まさに「時代(エポック)」といえるような環境変化としては産業革命や金融資本主義の誕生などがあるでしょうが、そういうのはしょっちゅう起こることではないです。
 直近のパンデミックは、働き方だけでなく、働くことについての考え方にも大きな影響を与えたようです。これは(名前の通り)規模が大きく、多くの人に共通する出来事でした。一方で、変化の中身については、人それぞれであろうと思います。
 国単位での労働環境(市場)という事情もあるでしょう。その地域の文化とも関係してくる要因ですが、そもそも何を大切にするかは、文化によってベースが異なります。ただし、これは政治体制とはまた違う点です。後で触れますが、アメリカと中国って(資本主義と共産主義という表面的な差異と対照的に)似ている部分が結構あるんですね。文法(言語)も似てますし。そうすると、労働観の変化において同じような動きを見せる場合があります。
 また、国によって別々である政策は直接的な要因になるでしょう。UBIを導入するかどうかなどの大きな話もあれば、サラリーマンの月給が若干減るなどの小さな話もあります。これらは、実際の額面に反映されるという点で直接的ではありますが、人生観や労働観といったものの変化に対しての影響力についてはむしろ、他の要因よりも小さいのではないかと思われます。
 あと、個人の単位としては、世代の違いがあるでしょう。最近だとZ世代の働き方といったものですね。これは、もし「世代」に留まるなら、大きな変化ではありません。次の世代はまた別の考えを持っているでしょう。しかし、世代を超えてある程度横展開するならば、変化の要因になりえます。この記事では、この点は扱いません。

グレート・レジグネーション(大量離職)

 この世界的なトレンドについて、まずはアメリカの事例ですが、ざっくりいえば、パンデミックによるテレワークなどの経験を経て、家族との時間の大切さを再認識した人たち(熟年現役世代)が、大量に離職するという動きがありました。離職であって転職ではありません。アメリカでは転職によるキャリアアップが個人の成功の一つのモデルケースだったのですが、その辺りが変わったという感じでしょうか。離職前の年収や蓄えによって違うでしょうが、低賃金の労働をするぐらいなら働かない方を選択するという人たちもここに含まれていると考えていいと思います。バイデン政権は対策として、インフレ対応を連動させつつ、疑似UBIのような政策もうっているようです。
 フランスでもパンデミックをキッカケにした変化がありました。こちらは若い人たちが中心のようですが、わざわざきつい仕事をしない=人生のクオリティが下がるような仕事を辞める人たちが増えたようです。フランスはもともと自分の時間を大切にできることが価値でした。テレワークは、その価値に親和的なツールと捉えられたようです。
 イギリスでは、中〜低所得の50〜60代の早期離職が目立ったそうです。その大半の人が再び働くつもりはないとのことです。国(福祉政策)によって様々ですが、積極的離職というのは広くみられた現象ということです。結果として、労働市場は人手不足になります。いまのところ、これらの国々では外国人労働者がその不足分を支えているようです。
 重要なポイントは、社会生活を快適にするための労働で人手不足が起こっていることです。グレート・レジグネーションを一言でいえば「人生観に見合わない安い給料なら働かないことを選択する」です。したがって、今までがおかしかったのだと考えることもできます。つまり、社会生活に必要な仕事への給料が安すぎた(逆に必要不可欠でないような仕事ばかりが高給だった)のではないかということです。哲学的なフォーカスとしては、希少価値(高度な技能など)と多くの人の役に立つことは相関していないことが多く、むしろ多くの人に役に立つ仕事は誰でもできる側面があったため、社会的価値を低められてきた、といったところでしょう……って、この程度のことナナミンも言っていますけどね。

「静かな退職」と「諦め」

 今年の夏にアメリカで「Quiet quitting」という言葉がバズったそうです。意味としては、最低限の仕事はこなすがそれ以上は頑張らない働き方。さっきの事例のように離職を選択することができなかった場合の折衷的な変化と位置づけることができるかもしれません。アメリカでのデロイト社の調査では、労働者の77%が現在の仕事で燃え尽き症候群を経験しており、64%がひんぱんにストレスを感じているとのこと。ま、こういう統計よりも肌感覚の方がよっぽど現実に即していることも多いと思います。私は日本に住んでいるので日本の肌感覚になりますが、例えば――ろくでもないテレワークが終わって、時差出勤という柔軟性など概念的に存在しないので多くの人が同じような時間に出勤し、家に帰る、その交通手段の一つとしての電車。乗客のサラリーマン……行きだろうが帰りだろうが、ものすごく疲れています。いや、明らかに疲れすぎだろと思うぐらい疲れています。サラリーマンじゃない人(おそらく食事や遊びに電車を利用している人たち)と比べると異様な光景ですよ。もちろん、疲れている理由は人それぞれ違うでしょう。しかし総じてこれが現状です。
 アメリカでは、静かな退職(ローギアで仕事をすること)で凌いでいるようですが、中国ではもう一歩進んだ労働観が広く共感を集めているそうです。「諦め(バイラン/英語ではLet it rot)」とは、スポーツ競技で既に負けている側が早く試合を終わらせるためにさっさと負けることが由来の言葉だそうです(日本では負けていても最後まで頑張れとか言われていましたが、過去のことになっていることを祈ります)。それを仕事に当てはめた場合、「頑張らないこと(出世しない、給料アップを目指さない等の上昇志向の放棄)が人生にとって(経済的)マイナスであることを分かった上で、そういう競争的な働き方はしない」となります。「諦め」というのはちょっと仏教チックで訳としては違っていて、バイランとは、放置して腐らせるというかなりマイナスを含んだ言葉です。「やけくそ」という訳もされているようで、そっちの方が近いでしょうか。もちろん中国特有の事情が背景にはあります。しかし、頑張らないことは、結果として個人(の健康)にとってもヘルシーだし、競争しないという点で周囲にとってもストレス低減になるでしょう。

日本の直近の政策

 なんどか立場表明をしていますが、私は特定の支持政党はありません。したがって、政治的意図はなく、労働観という流れに限って、いくつかピックアップしてみましょう。
 年金というものについて、今もらっている人以外の世代は、ほぼ信頼していないと思います(あー、でも絶対払うべきですよ。これは義務とかそういうことではなく、あれは保険なんです)。そういう背景の上で、国民年金の支給額を維持するために厚生年金のお金を使うよ、というのは、もう本格的にどうでもよくなってきましたね。
 そもそも現役世代がリタイア世代を支える理由は(戦後も終わった時代において)ないです。いや、正確に言うと、期待できる未来を残してくれた場合は支える理由があるのですが、彼らは絶望の未来を残したので、支える理由がないってことです。だから彼らが払った分で彼ら自身を支える(私たちの世代にも同じことがいえます)のが筋ですが、年金はそういう仕組ではないですからね。サラリーマンは給料から天引きなので、なんだかんだいってもしょうがないよな、と諦めていたんですが、厚生年金をスライドさせるとなると、もう、理屈も明細もあったもんじゃないです。無理が通れば道理が引っ込むというのはこういうときに使う言葉でしょう。国としては、だからこそ厚生年金加入者を(条件をいじって)増やそうとしていますし、3号保険者の見直しも検討しているようですが、そういうことはいったんどうでもいいです。
 まず、多くの人が組織に属して働くサラリーマンであるという現状がある(個人事業主はインボイス制度で苦しめられる)。その日本のサラリーマンたちは、生産性が低いかどうかは別にして、少なくとも今は頑張って働いている。ところが、サラリーマン(やその扶養家族)がなけなしの給料を搾り取られる。ざっくりいうと、こういうことでしょ。
 そりゃね、お金だけが全てではないです。でも、頑張る気になりますか? 疲れて電車ではずっと寝ているか呆然としている生活を続けていきますか?(その生活はあなたの人生にとって持続可能ですか) 世界の平均でいえば日本人の給料は安いんですよ。そっからまだ減らすとは恐れ入ります。そして、世界のトレンドは、ある程度高い給料でも、人生の方を大事にする方向に変化していっています。あるいは仕事は続けるにしろ、頑張るのやめちゃいますよ、に変化していっています。どちらかというと、それらの方がまともな神経ではないでしょうか。

さいごに

 以上は、私の意見ではないです。私の言葉で書いているのでそう見えるかもしれませんが違います。ということで、まとめではないですが、私の(哲学的観点からの)意見を書いておきましょう(主張が過去の記事と一部重複するのはご了承ください)。
 (日本)社会は、労働者として高スペックな人材を求めすぎていると考えています。その証拠は適当に求人情報を見れば事欠きません。その求めるスペックに給料が見合っていないかとかは、私の関心ではありません。この要求されるスペックの高さが、社会参加のハードルをバカみたいに上げている、これが問題です。働くとは、社会参加の一つ――単なる一選択肢ではなくメジャーな一つの形です。そして人生における比重も大きいです。楽しく働けたら、ほとんどの場合、楽しい人生になるといってもいいぐらいです。それなのに、働くことへのハードルが高すぎる。この記事として大事なポイントは、このアポリアは、政府ではなくて企業レベルで(完全ではないにしろ)コントロールできる事柄だということです。
 説明のために少し言葉を加えると、高スペック人材を求めるということは、そうでない人を排除することです。これは何も難しい話ではなく当たり前ですが、リクルーターはそのことを意識しているでしょうか。もっというと(ある種の「不都合な真実」になるかもしれませんが)、雇う人間……定型発達が前提になっていますよね。非定型の人は、様々な形の非難にさらされ苦しんでいます。そして当然ながら障害者はもっと排除(労働市場の分断)されています。障害者雇用があるじゃないかと思いますか。障害者雇用の実態(やっている仕事)や給料水準にきちんと目を向けましょう。強調しておきますが、こういう、定型発達を前提にしつつ更に高スペックを要求することは差別なんですよ。SDGsとかに取り組んでいるようですが、児童労働とかぶっちゃけどうでもいいものではなく、自分たちがやっている差別と人権の毀損を、少なくとも認識しよう、そういうことです。

参考になる文献です

 そして、それへの(責任ある)対処は、一企業のレベルでできることです。みんな(という言葉はウソで、できるだけ多くの人)が人生にとって意義があるなと思って働ける仕事をつくること。それができている企業は、いい企業です。

 ここまでで、この記事は終了です。ビジネスの方はお引き取りください。
 日本(の都会だろうが田舎だろうが)を歩いていて、障害者やちょっと変わった人(ある程度の割合で非定型発達の人)を見かけることが少ないです。なぜなら、社会的に排除している――具体的には目のつかないところに追いやっているからです。外国人の排除(移民をほとんど受け入れない)だけでなく、自国民も排除しているということです。そういう社会が居心地がいいと思う(その思いは否定しません)なら、あなたが権力者かどうかに関わらず、特定の権力に与しているということだと思います。いや……こういう権力論じみたエクリチュールは、よくなくて、だから言い換えると……ようするに自分と一緒の人たちの集団がいいんでしょ。理屈が通じたり、空気で行動を方向づけたりができることを、安心とか信頼とか言っているんでしょ。いいんですよ、それは選択です。別にツケが回ってくるとか(言う人もいますが)も、私は言いません。さらには罪の意識とか良心なんていう啓蒙じみたことも言いません。ただ、そういう感覚……言葉としては安心や信頼、それらは呪言です。呪ってもいるし、呪われてもいるんですよ。
 私が障害者の味方? そうでありたいとは思っていますが、おそらく違います。私は(多くの人たちとは違う形で)呪われているし、呪いそのものでもあります。

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