見出し画像

雑記:声/音への不快感――公共について

 今回はエッセイ風に「声」あるいは「音」について、最近のちょっとした話題に触れつつ、つらつらと書いていきます。

声と音は同じ

 いきなりですが、私は声と音は同じものと考えます。
 とはいえ、もちろん基本は使い分けられるものでしょう。ざっくり言って人が発する言葉がヴォイスで、言葉以外のものをサウンズでしょう。私はてっきり「神の御言葉」は「ゴッドボイス」であると思っていましたが、英語ではword of god(神の声の場合はvoice of god)なんですね。ライディーンが原因であろう勘違いをこういう記事を機会に正せるとはびっくりです。

人間と動物との不分別

 英語のVoiceは、ラテン語由来ですが、歌にかなり結びついたニュアンスを持っているようです。ヴォーカルっていいますもんね。ちょっとした発言(つぶやき)については――偉大なアプリのように――Tweetというのでしょう。そして、アイコンが示す通り「鳥のさえずり」にも使う言葉です。ここでは声を発する主体として人間と動物は区別されていません。このことは、日本語だってそうです。(鳥や虫の)鳴き声っていいますから。

鳴き声騒動

 最近、「カエルの鳴き声がうるさくて眠れない」という一種のクレームがニュースのネタになりました。私は新潟にしばらく住んでいたことがあり、周りは水田だらけだったので、夜のうるささは経験を伴ってよく分かります。もっとも、すぐに慣れて寝れましたけどね。
 この、言ってみればつまらないネタがニュースになり得たのは、少し前の(こちらは大騒ぎになった)「公園の子どもの声がうるさい」というクレームあってのことでしょう。このことには後で戻ってきます。
 さて、カエルに戻りますと……「田んぼの持ち主に騒音対策をお願いする」という主旨のクレームもあるようです。このことについて一つ私の過去の体験を紹介したいと思います。就農していたときには様々な仕事をしましたが、あぜの雑草の刈払もありました。あるとき、用水路(取水ではなく排水用)に面している畦道を歩いていました。カエルは田んぼの中にも畦道にもたくさんいました。私が歩いてくるので、カエルはジャンプで道を空けてくれます。その中で、用水路にダイブするカエルもいました。そこそこの水量と流れでしたが、カエルは流されてしまわないように蛙泳ぎで脇に向かいます。……ところが、二、三掻きしたところでそのカエルは(水面で)ひっくり返って動かなくなりました。死んだように見えます。まさか溺れたのではないだろうと不思議に思い、用水路に逃げ込むカエルを注意してみましたが、どのカエルも同じことになります。
 化学的に検証したわけではないのですが、おそらく(排水の)農薬濃度が原因だろうと思っています。この経験から推測的に言えるのは、水田の農薬(その種類にもよりますが)濃度を一定以上にすればカエルを殲滅できるということです。もちろん、私はその水田で育ったお米は食べたくありません。クレームを言明する人はそういうことまで考えているのか、疑問です。

心理的な区別

 声と音は、心理的な区別を伴っているとも言えるでしょう……心理的なものはたいてい物事をややこしくするものです。例えば、電車などで電話することは一般的にマナー違反と考えられています。「それは何故か」など、どーでもいいので私は考えませんが、ようは電話の話し声は「音」であり、車内にいる人たちの会話は「声」と分類されているのでしょう。このことへの私の意見は単純で、音だろうが声だろうがうるさいものはうるさいということです。電車の中で電話している人の声なんて、電車の中の(物や人の)騒音の中では小さなものです。
 話が脇に逸れますが、最近は身近に感じられるように工夫されたキャラクターなどを媒介しつつ、様々な車内マナーに注意が促されているな、と感じています。そして、その程度(範囲)はほとんど間違いなく、昔より厳しくなっています。それでも「居眠りはOK」というところが日本らしいですね――グローバルスタンダードでは、居眠りは重大なマナー違反ですから。これは、ちょっとした文化の違いというより、もっと大きな……移動時間に眠らなくてはいけないほど疲労する労働が許容されているとか、睡眠(時間)が大事にされない=勤務間インターバル規制がちっとも根付かない……そういったスケールの文化の違いの現れでしょう。

複数のアナウンス

 上記とは別の理由――個人個人の感受性(正確にはその閾値)による違い(区別)もあります。聴覚過敏(ぎみ)の方は、日常生活(通勤や仕事場)があまりにうるさすぎるのに苦しめられているでしょう。私自身は、多少、音に敏感である程度だと自認していますが、某世界最大の家具量販店は大の苦手……というよりその場にとどまっていることができません。BGMといえるもの、そのエリアの商品のアナウンス、店全体に対するアナウンス等々、少なくとも常に3つ以上の声/音が提供され、しかもその大型店舗のほぼすべての場所でそれらが鳴っているので、逃げ場が店舗の外にしかありません。そこで平然と買い物を楽しんでいる多くの家族連れの人たちが、おそらく正常なんだろうとは思うものの、空間としては異常だとも思います。
 どの程度一般化できるか分かりませんが、このように、一旦うるさいと感じ始めると、いかに有用な情報だろうが、(あえて心理的な区別でいえば)「音」になるということです。クレームの主からすれば、カエルの声も音であり、子どもの声も音だったのでしょう。

科学的対処

 音であるならば、方法はどうあれ遮音することができます。工事などを伴わない――したがって、もっと普及してもいいと思う手軽な方法としてホワイトノイズ……ノイズによってノイズを減らす方法もあります。クレームを述べる人は、単に苦しい日々を過ごすだけでなく、いくつかの科学的な対処法をことの方がヘルシーだと思います。もちろん、条件が許せば遮音工事をすることだって、選択肢に入っていいでしょう。
 当然ながら限度はあります。例えば、振動を伴う場合は対処が難しいでしょう。自宅の隣に廃品回収業者ができてしまったとかですが、こうなると近隣トラブルなので、音の問題程度で解決する話ではなくなります。

政治的対処

公に敵対する

 クレーム……というよりも要望を然るべき相手に伝え、政治的な解決――多くの場合、排除を伴う、そういう対処の仕方もあります。「子どもの声がうるさい」の件は、こちらでした。あの一件は、様々な人が色々思うことはあるでしょうが、私は政治的に対処したことそのものは悪いとは思いません。政治は、有無を言わせぬ強権でない限りは、なんらかのかたちで開かれているので、排除される側にも反撃のチャンスがあります。そのバランスが公平である必要はありません。チャンスさえあれば、排除をひっくり返すことができるということ――そして、そのプロセスに(狭い意味での)当事者以外の人が(SNSなどを通して)関わることができることがとても重要です。だから、あの一件は一連の政治的プロセス含めれば、むしろ良い帰結を迎えることができたといえるのではないでしょうか。
 終わりよければ……の事柄について、今さら何か意見を述べるのは野暮です。だから野暮を承知で……ということになりますが私の感想は――「子どもの声に」よりも、「園に」敵対したこと、これは凄いなと思いましたね。公(パブリック)な場所を破壊する。通常、そういう(行為、働きかけをする)人は、パブリック・エネミーです。

排除アートとその拡大

 住みやすい環境(街)という言葉は、常に「誰にとって」が隠れています。攻撃の対象は「子どもの声」だけではありません。街(公共空間)に住む、特定の人たちにとって攻撃的な建築物は排除アートと呼ばれています(英語圏ではHostile architecture(敵対的アーキテクチャ)、Defensive urban design(防衛的な都市デザイン)」)。エスポジト流ならば「免疫的な」と言い換えてもいいでしょう。具体的な例は、寝そべることや長く座っていることができない設計になっているベンチで、多くの人にとって身近にみられるものではないでしょうか。
 「特定の人たち」というのは、ざっくりいって浮浪者です。昔の話で恐縮ですが、大阪の西成という場所は、ホームレスや日雇労働の方が集まる=生活する場所でもありましたが、同時に彼らに敵対的な装置(清掃名目で、定期的に散水されるパイプなど)が発明される場所でもありました。いずれにしても、西成は特殊な場所でしたし――キレイになったそうですが――そうであり続けています。
 我々にとって身近なものとなった排除アートは、そういった「特殊」が普遍=一般ユニバーサル」化したものと言えます。(高齢者の利用が多いであろう)バス停の椅子ですら座面が小さく……つまり、長く座っていられないものなのです。

さいごに

 一方に「誰にとっても使いやすい」ユニバーサルデザインがあり、他方に「あらゆる者を排除する」ユニバーサルデザインがあります。個別の道具ツール建築アーキテクチャについては、善か悪かを議論することはできるでしょうが、私たちの社会には、それらが混在しているということです。
 この記事の話の流れで私の意見を述べるなら、「その水田(街)で育ったお米は食べたくありません」といったところでしょう。もっとも、この意見よりも大切なことは、デザインに対しては、美的なセンスの他に公的なセンスからも(ある種の)判断ができるということです。そして、そのような判断とは、「選挙に行くべし」といった紋切り型でないだけでなく、シンプル故に、より直接的な政治的判断なのです。
 政治的な事柄について、よく「声を上げる」という表現が使われます。そして(もう過去のものでしょうが)カルスタの人たちは「サバルタンは語ることができるか」と考えたりします。これらの慣用表現は、ある意味で間違っていて、それは(やっと記事の冒頭を回収するのですが)、声は音であるということです。政治的な抗議は音によっても可能です。それが(言葉としての)声でなくてもいいのです。騒音、ノイズ――こういったものは、外(=他の有り様)につながっているものです。一方、いわゆる支配=秩序側は、整った音楽、ハーモニーを奏でるものです。こういったものは、内と外を遮断するものです。

もしサポート頂けましたら、notoのクリエイターの方に還元します