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空蝉の家 / 余白

空蝉の家がTVで放送されることになったので, 設計にあたってのテーマだった"スカスカ"について以前書いたものを再掲する.
https://note.com/n_karmanstudio/n/nf3086b703a9b
ついでなので, スカスカについて別の角度からもう少し触れてみたい.

スカスカとは余白でもある. そして建築には余白が必要だと思う. 
建築における余白について考えるにあたっては, その対となるであろう機能から話を始めるのが良いと思う. 

100年ほど前のアメリカでフランク・ロイド・ライトよりやや年長のルイス・サリヴァン(Louis Sullivan)という建築家がいた. 私たちが現在彼を記憶しているのは, 「形態は機能に従う」"Form follows function."という彼の有名なフレーズによってである. 今でも少しかたちを変えて「機能美」などと言われているが, そうした言葉の元祖だろうと思う.  (ちなみに民藝でいうそれとは似て非なるものだと思う.)
あらためて書いてみると, Fを頭韻にしたちょっと洒落た言い回しにも見えるが, このフレーズがその後, 世界に伝播し, 今なお強い影響力を持っている.

形態は機能に従うということをサリヴァンが言ったのは, 1900年代初頭のアメリカという条件が大きかったのではないかと思う. 新大陸で年月とともに国力が増してくるに従って徐々に移民としての意識は薄くなって故国の建築様式にとらわれる必要も感じなくなり, また日増しに発展する車や航空機などの機械を横目に, 新しい時代の建築を予感して生み出した言葉なのだと思う. つまり, 形をつくる根拠をいつの時代のどこの地域の◯◯建築様式といったものに求めずに, 新しい別の根拠を作り出した. それは到来しつつあった機械の時代と完璧に符合するものだった. そして,「形態は機能に従う」がその後に続くモダニストたちの標語のようになり, モダニズムの隆盛とともに建築の隅々までドグマのように浸透していった. 時代は下って現代では, 機能的でないものはその存在意義すら危うくなるような有り様である. それに抵抗するようにこれまで多くの建築家たちが, そうした教条的ともいえる機能主義を乗り越えようと試みてきた. 

ところで, 建築における機能とはいったい何だろうか. 機械であれば完璧な合目的性(早く走るとか早く演算するとか人間のように話すとか)があるので, 機能的であるということの意味は分かりやすいが, こと建築になるとそうもいかない. 人はそんなに合目的に生きているわけではないからだ. 用事がなくても街をふらふらするし, 夕日や花を見て美しいと思ったりもするし(生命維持には関係ない), そうした機能や目的で説明しきれない取り留めのない行為の総体が生活そのものであるからだ. 
また, ある時点での有効だと思える機能性がどれほどの賞味期限であるのか,  それは設計時点では定かではないし,  もしかしたらその多くは建築の寿命より短いかもしれない.
だから, 建築を機能だけで語ることはできないし, ましてや機能性だけを根拠に建築に形を与えることは私はできない.

とはいえ, 機能主義の全てを否定するわけではもちろんない. そうではなくて, 機能偏重で建築をつくると片手落ちになるのではないかということをいいたい.
その片手は何か? ポストモダン建築のように〇〇様式を召喚? それは違うだろう.
では何か? 
それは"環境"だと思う. (今のところ, その核心をうまく言い当てた言葉を私が持ち合わせていないので, とりあえず環境と呼んでおく.)
どういう環境を美しいと感じたり, 快適だと思うかについて人間の行動はとても興味深い. 例えば真夏のビーチなどは客観的に見たら過酷すぎる環境だと思うが, 人々は嬉々としてレジャーに繰り出す. そんな過酷な環境になぜ行くのかと問われても合理的な説明ができる人は少ないのではないかと思う. それは極端な例だとしても, 春や秋などの気候の良い時期のピクニックなどは多くの人が気持ちいいと感じるところだろう. 私にとっても木漏れ日がさす木々の下で過ごすのは大好きな場面の一つである.
しかし, その場面(自然環境)を建築化しようとすると, ことはそう簡単ではない. 
木漏れ日のような日の移ろいといったときに, 例えばルーバーで陰影をつけただけでは, それは単なる薄っぺらな影の動きにしかならない. 実際の木漏れ日は, ある空間的な高さの中でのスカスカした枝葉の重なりがもたらすものなのだ. つまり, 従来の機能主義からくる建築の壁や屋根の厚さでは, 到底建築化できない. そこで空蝉の家では, 光と風が通り抜ける厚さ約1.5mの多層構造の屋根としている. 機能からだけでは演繹できない気持ちの良い空間を作り出すために, 一見無駄とも思える余白が必要なのである.

思えば, リ・ウファンの作品や, 韮山にある江川家住宅, 篠原一男の一連の住宅作品など, 私が好きなものの多くは, 余白との共存関係によって成立している. 

強固な機能主義を軌道修正するために, "環境"そしてそれを生み出すための余白のことを考えている. 機能論に比べて環境論がやや劣勢にみえてしまうのは, どうしてもそれが数値化しきれない感覚の部分によるからなのだろうが(なぜ真夏のビーチに嬉々として出かけるのかの説明が難しいように. ) , 別に私のいう機能と環境は相反するものではない. むしろ両者が分かち難く関係しあった新たな様相の建築を考えている. そうした姿勢をあえて説明しようとすると, ソニアパークさんのArts and Scienceというフレーズが近いのかなと思う. 美学であり同時に科学でもあるもの. 空蝉の家はそうした試みの一つである. 

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