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いじめられる側にも原因はある

「いじめられる側にも原因がある」という主張は蛇蝎のごとく忌み嫌われており、ネット上で叩かれているのをよく見かける。
しかし、それでも自分は「いじめられる側にも原因はある」と主張したい。


  • いじめられる側にも原因はあるが、いじめられる側に非はない

  • いじめられる側に原因があることは、いじめていい理由にはならない

  • いじめが発生する原因でなくとも、発生するいじめの対象に選ばれる原因にはなる

  • 原因の全てではないが、原因のひとつにはなる

…こういうことではないか?
※本人に非がある場合など、例外もある。

「いじめられる側にも原因がある」を頭ごなしに否定する人は、いじめの「原因」と「責任・落ち度」を混同してしまっているのではないか。
何も悪くなくても本人の特徴がいじめられる原因のひとつになり得る、というのが自分の考えだ。

例として、以下のAさんとBさんについて考えてみる。

Aさん…高身長、イケメン、マッチョ、清潔、成績優秀、スポーツ万能、明るい、気配り上手、有能
Bさん…チビ、ブサイク、デブ、不潔、成績悪い、運動音痴、暗い、空気が読めない、無能

AさんとBさん、どちらがいじめられやすいだろうか?自分は「Bさん」だと思う。

「いじめられる側に原因はない」と主張していいのは、ここで「どちらも同じ」と思えた者だけだ。

もしどちらか一方を思い浮かべたのだとしたら、その人に何らかの「いじめられやすそうさ」を見出したはず。
それがいじめられる側の「原因」だ。かといってそれはただの個性であり本人に「非」はないのである。


ここまでに述べたことは「被害者」「加害者」の関係全般にも概ね適用できると思う。

ホロコーストにおけるユダヤ人の大量虐殺。殺されてしまったことについて、殺されたユダヤ人たちの側には原因がなかったのだろうか?
——否、原因はあった。「彼らがユダヤ人だったこと」である。

「原因」と「責任・落ち度」を区別して考えることができないと、これは極めて差別的で残虐な言説に見えるのではないか。
しかし、「原因」と「責任・落ち度」が別物であることを踏まえれば当然導き出されることである。

ホロコーストの犠牲者(仮にCさんとする)は、当時迫害されていない属性だったとしたら殺されていないだろう。「Cさんがユダヤ人だったこと」が原因のひとつでないはずがないのだ。

①ナチスがユダヤ人を殺そうとしたこと
②Cさんがユダヤ人だったこと

どちらか片方だけならCさんは殺されなかったはずで、①と②が合わさったがために殺されてしまった。
どちらもCさんが殺された「原因」であるが、「責任・落ち度」があるのは①のみで、②にはない。


なぜこんなことを主張するかというと、「責任・落ち度」がない場合でも被害者側に対策できる余地がある場合があるからだ。

もちろん、ホロコーストの例でCさんの「ユダヤ人だったこと」に対策の余地はない。そもそも殺されてしまっているので本人には今後の対策も何もない。
しかし、いじめの例ではどうだろう。AさんかBさんがいじめられた場合、思い当たる理由によっては対策の余地がある(対策「しなければならない」、「する必要がある」のではない)。

「〇〇が悪い」で思考停止せずに原因を分析することで、今後の被害を防ぐための選択肢が増えることがあるのだ。

ただ、「『原因』と『責任・落ち度』を分けて考える」というのは、(個人的には非常に重要と考えているが)あまり一般的でないと思われる。
無用なトラブルを避けるためにも、前提を共有する機会がないのならその類の発言には慎重になるのが無難だろう

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