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言論との向き合い方

自分には、記事(特に「考え事」マガジン)を書くにあたって意識していること……自分なりの言論との向き合い方や矜持のようなものがある。

◆データ

普通は逆だろというツッコミが入りそうだが、自分は記事を書く際になるべくデータを使わないようにしている。

というのも、そのデータが正しいかの検証が困難だからだ。読む側はもちろん、他人が出したデータを引用する場合などは何なら書く側ですら検証が困難である。
(各々が同条件でデータを集めてみれば検証はできるだろうが、それを個々人に求めるのはあまりに酷だろう)

例えば、□□した人の△△%が××だったというデータを出されても、その数字が正しいのか我々には現実的に確かめようがない。それに基づいて主張を展開されても「いや正しくは〇〇%なのでその主張は誤りです」といった反論をするのは極めて難しく、基本的にデータが正しいという前提で見ることになる。検証できるのはデータと主張の論理的つながりの妥当性くらい。

公的なデータを引用するなら信頼度的にまだマシな方だが(それでも間違っていることがある)、手続的な担保が弱い独自の研究や個人で出しているデータなどの場合、悪意があれば数字をいじることも割と簡単にできてしまう(ミスもあり得る)。
読む側としては、データがおかしいのではと疑うことはできても、それだけでは誤りであることを証明するには至らない。事実ではなく意識に関するデータの場合は特にそう。

これがどういうことかと言うと、(正しいデータでなくとも)「これがデータだ」と言い張りさえすれば相手をほとんど一方的に殴ることができてしまうということだ。

そのデータが間違っていたら主張が180度ひっくり返るほどに主張の拠り所となっているにもかかわらず、読む側にほぼ検証の余地がない。
そのため、自分にとっては「データを基に主張する」という行為が、安全圏から一方的に石を投げるかのようなアンフェアな行為にも思えるのだ。

もちろん、各種の研究や論文においてデータが重要なのは分かるし、それらを否定するものでもない。
ただ、筆者の「考え事」マガジンの記事は、データに左右されないようなテーマで、データではなく思考の流れを書くことにより、読む人が十分に検証できるようにしている
(データを示す必要がある内容なのに示さない、というスタンスではない)


◆事例

データをなるべく使わないとなると個別の事例やエピソードを重視するのかというと、それも違う。

事例というのは「(一例として)こんなことがあった」でしかない。事例から一般化して主張を展開するのはかなり危ういと思う。
それに、その事例が本当なのかというのも、データと同様に読む側からすれば検証が困難である(自分の事例でないのなら書く側からも検証困難)。そして事例はデータ以上に騙りやすい。

また、「知り合いから聞いた話」、「自分やその周りはこうだった」系は対外的な根拠として弱すぎる。(本当は違っても)「自分の知り合いは逆のことを言っていた」「自分やその周りでは違った」で全て棄却できてしまう。(※)

そのため自分は、事例を紹介してそこから得られる教訓は……といった記事構成はなるべく避けている。
事例が出てくるとしたら、「その事例」について述べている、(事例を根拠とすることなく)一般化した内容を思考実験的に具体例として当てはめるような場合、考えたきっかけとしてなど、主張の直接的な根拠とは違う箇所になっているはず。
もしかしたら完全にはできていないかもしれないが

(※)なお、ここで「全体の傾向を個別の例外事例で反論するのは不適切」といった指摘は当たらない。
こちらからすれば、「こちらこそが全体の傾向を論じていたところに相手が個別の例外事例で反論してきた」とも言えてしまう。個別の事例から全体の傾向を導いている時点で同じ穴の狢である。


◆外部リンク

これも普通は逆だろというツッコミが入りそうだが、自分は記事を書く際に外部リンクを貼らないようにしている。
実際、自分はこれまでに投稿した数十もの記事の中でただの1つも外部リンクを貼っていない。貼っているのはnote内で自分が書いた他記事へのリンクのみ。

理由としては、外部のリンク先は自分で内容を保証することができないというのが大きい。
内容が変わるかもしれないし、リンク切れになるかもしれない。それに、データや事例のところでも言及したとおり、事実関係の正確性も自分では担保できない。

投稿時点では問題なくとも、その後の時間経過を前提にすると外部リンクは避けたい。自分の記事の内容は自分が文責の、自分がコントロールできる記事の中で完結させたい……そんな思いがある。


◆事実と推論

推論に過ぎないことを事実であるかのように断言するのは知的に不誠実だと思う。
そのため、自分は「事実と推論を分ける」ということを意識している。具体的には、推論に過ぎないことを断言しないようにしている。

確かに、断言した方が文章としてのリズムがいいと思うし、自信があるように見えるだろうし、読む人からすれば説得力を感じるのだろう。発言のインパクトが強まり、より注目され、影響力も増し、金銭的なメリットも生まれるかもしれない。

しかしながら、自分はそれらのために知的誠実さを放棄したくない。自分が責任を持って断言できることと自分の責任では断言できないことは明確に分けたい。

例えば、自分の考えなら断言できるが、他人の考えは(本人が表明したもの以外は)断言できない。言動から思考や心理を読み解いたり少数の証言からその属性全体の行動原理を論じたりするのは全て「推測」である。

また、根拠がデータでも事例でも、「このように解釈・説明できる」だけでは「それ以外では解釈・説明できない」ことが担保されておらず、「事実」として確定しない
事例はもちろん、データの場合もよほどピンポイントの対照実験でもしていない限り「そのデータをどう解釈するか」について確定的な根拠をもって行うことができず、その解釈は可能性のひとつを挙げた推論でしかない。

本来であれば「〜だからです」「こういう機序です」などと断言できることではなく、自分からすればそれらは「決め付け」「知ったかぶり」である。

断言しないことは責任逃れだという意見もあるかもしれないが、推論に過ぎないものを断言するのは責任を引き受けているのではなく無責任に断言しているだけだと思う。事実と推論を分けることこそが「発言に責任を持つ」ということではないか。

自信がないから断言せずに濁している、というのも違って、自分はそれぞれの記事で自信を持って主張している。それでも断言しないのはそれを「事実」であるかのように扱うのは違うと思うから。
総じて、自分の中で断言するかどうかの基準が「事実か推論か」となっていることによる。


◆まとめ

以上のとおり、自分なりの言論との向き合い方や矜持のようなものは

  • なるべくデータを使わない

  • 個別の事例を根拠に一般化しない

  • 外部リンクを使用しない

  • 事実と推論を分ける

これらが基本となっている。

注目を浴びなくとも、影響力が得られずとも、金銭的なメリットが得られずとも、今後もこれらを貫いていきたい。

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