「風の歌を聴け」の冒頭から村上春樹を考える②

 冒頭の言葉と対になるように、最終章の最後はデレク・ハートフィールドの墓碑に刻まれた「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。p196」というニーチェの言葉によってこの小説は終わっている。 
 <僕>を診察していた精神科の医師の言葉を借りるなら、「もし何かを表現できないなら、それは存在しないも同じだ。p33」。
 夜の闇の奥底に潜み昼の光に晒されない「完璧な絶望」は、「存在しないも同じ」である。そのようなものを表現する「完璧な文章などといったものは存在しない」そういうこと、なのだろう。

 僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。殆ど全部、というべきかもしれない。不幸なことにハートフィールド自身は全ての意味で不毛な作家であった。読めばわかる。文章は読み辛く、ストーリーは出鱈目であり、テーマは稚拙だった。しかしそれにもかかわらず、彼は文章を武器として闘うことのできる非凡な作家のひとりであった。 §1(p5-6)

 <僕>が文章について殆ど全部を学んだデレク・ハートフィールドという作家(その綴りはDerek Heatfield)は、<僕>あるいは村上春樹のでっち上げた架空の作家であって実在しない。この名前はどこから来たのか。

 ハートフィールド(Heatfield)は「Heat心(感情)のfield場・領域」を意味する簡単な英語である。ならばそのファーストネーム「デレク(Derek)」に意味はあるか。調べてみると、そのDerek という名前の語源は、「ゲルマン語で『人民の支配者』」なのだそうである。つまりデレク・ハートフィールドとは、心(意や知でなく「情」)こそが人を支配するという意味を持つ架空の作家名なのだ。

 その心(情)について著者は、「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。p196」(形となって現れる行動や言葉で心の奥底がわかるものか)という。「象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない」同様の意味だ。そして、その心(情)を作家に見立てて、「全ての意味で不毛な作家」「読み辛く」、「ストーリーは出鱈目」であり、「テーマは稚拙」と表現しているのだ。しかしそれにもかかわらず、文章表現を武器として闘うのである。

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