「風の歌を聴け」の冒頭から村上春樹を考える

象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。

村上春樹「風の歌を聴け」

 動物の象と、その調教師である象使い、・・・・・・「象のサーカス」のようなイメージへと読者を誘導するこの文章は、読者にそこに何らかの意味が隠れていることを感じさせる意味深な「比喩表現」だ。
 が、暗喩のように見えるこの文章は比喩ではない。かといって文字通り「象のサーカス」を描写しようという話でもない。
 この文章の「象」は、「動物の象(ぞう)」ではなく、字義通りの「象(しょう)」だ。漢字:「象(しょう)」の本来の意味は、「物の形・目に見えるすがた」なのだ。著者は、「象」と「象使い」の語を用いて、読者を「象のサーカス」のようなイメージへと誘導しているが、これは意図的な誤誘導とも言うべきものだ。
 いや、誤誘導ではなく、あきらかに読者に遠回りを強いている。その目的は、読者を少しでも井戸の深いところに潜らせ、そこから自身の力によって、動物の象ではない本来の意味に辿り着かせることによって、強い意味を伝えようとしているのだ。
 この前提に立てば、「象使い」は「サーカスの象(ぞう)使い」ではなく、「象(しょう)使い」と読むべきかもしれず、それは、現象や事象を発現させる「心の動き」であると受け止めるべきではないか。
 言い換えれば、「実際に目に見える形としてあるもの、起こったことについて書けたとしても、その原因となった心の動きについては何も書けないかもしれない。」ということであり、これこそが村上春樹の「ドーナツの穴」だ。
 「象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない」が、「実際に目に見える形としてあるもの、起こったことについて書けたとしても、その原因となった心の動きについては何も書けないかもしれない。」という意味であると仮定するならば、冒頭の「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」の本当の意味にも近づけるような気がする。


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