節分とワタクシ


 2020年2月3日、ワタクシは安物のパイプ椅子に腰掛け、ソーセージカレーを食っていた。
 顔を真っ赤にして目を釣り上げているのは、カレーが辛いからでも椅子のクッションが固いからでもない。節分という行事に怒っているからだ。わざわざ恵方の逆、東北東を向いて食事をするくらいには、節分に腹を立てている。
 なぜワタクシがこんなにも怒っているのか。その理由をお答えするには、ワタクシと節分の浅からぬ因縁を語らなくてはならない。

 ワタクシがこの世に生を賜った日、それが2月3日である。
 両親の弁によれば、ワタクシは奇妙なことに産声をあげなかったのだそうだ。死んでいたわけではない。たしかに生きているし、健康にも問題はなかったのだけれど、ただ泣かなかったのである。
 これは推測なのだが、ワタクシが泣かなかったのは、本能的に「節分」という文化を察知し、怒りに打ち震えていたがためでなかろうか。ともかく、ワタクシの人生は生まれた瞬間から、節分と切っても切れない縁で結ばれてしまっていたのである。

 ワタクシが本能ではなく、理性によって節分に怒りを感じるようになったのは高校二年生の節分だった。
 夜、部活が終わって学校から帰宅したワタクシは、
「ただいま、晩飯は何ぞ~?」
 と、ほざきながら、頭をグラグラさせつつキッチンに入ったのだが、すぐに家族の様子がおかしいことに気が付いた。皆して、帰ってきたワタクシに目もくれず、あさっての方角を向きながら、丸太ン棒みたいな太さの巻き寿司に齧り付いていたのである。
「もしかすると、声が小さくて、ただいま、と言うたのが聞こえなかったんやろうか。人間だもの、そういうこともあるよね」
 ワタクシはもう一度、ただいま、と言ってみたが、何の反応もなかった。家族一同、虚ろな目をして、ひたすらに巻き寿司を口に運ぶばかりであった。
 これは一体どうしたことだ。ワタクシは眼前に広がる光景を分析、次のような仮説を立てた。
 
 ・家族全員が巻き寿司の悪霊に取り憑かれた
 ・行政が定めた新条例に従っている
 ・〈斬新なお通夜コンテスト全国予選〉に向けての予行演習をしている

 考えるまでもなかった。というのも、真実は机上に置いてあった母からの書き置きに記されていたからである。
 
 〈誕生日おめでとうございます。本日は節分ですので、晩御飯は巻き寿司、それもただの巻き寿司ではなく恵方巻と呼ばれる特別な巻き寿司です。“恵方”なる方角を向いて、一言も言葉を発さず、巻き寿司を完食することによって「莫大なご利益」が得られるとのことです。よって、このような書き置きを残して候。つべこべ抜かさず黙って巻き寿司を食らえ。母より〉
 
 「ああ、そうか。今日は節分じゃったの。ワシは今、腹ぁ減っとるきに、巻き寿司だろうが何じゃろうが、あっという間に食うたるぜよ」
 高知に行ったこともないくせに、ワタクシは土佐弁で独り言をいった。土佐弁の持つ、朗らかで陽気な雰囲気によって、挨拶をしたのに無視された、という悲しみをごまかせないかと考えたのである。でもダメだった。心に空いた空虚は簡単には埋まらない。ならばせめて、空腹だけでも満たしてやらねば。
 ワタクシは巻き寿司と対峙することを決めた。

 デカデカとコンビニの名前が書いてあるビニルのパッケージを破く。すると、海苔の部分と、米の部分がこれまたビニルによって分割されているでないか。
「これはどういうだろう。まさか、別々に食べろと言うのか」
 ワタクシは家族に問うたが、返事はなかった。今、我が家は節分の魔力によって、完全に分断されているのだ。もし今、ワタクシが急病に倒れても家族は一言も声を発さないのでないか――。嫌な妄想が頭をよぎった。節分にはそれほどの力があるに違いない。


 先ほど破いたパッケージ。よく見ると、何やら図と文が印刷されているでないか。
〈海苔のパリパリ感をお楽しみいただくため、海苔と米部分をフィルムで分割しております〉
 その文のあとに、お召し上がり方、と海苔を米に巻く方法が記されていた。
 ホスピタリティ。そんな単語が頭をよぎった。たかが、コンビニの巻き寿司と思って、ワタクシはナメくさっていた。大量生産される食料品だからといって、適当に作られているわけではない。背景に多くの人たちの努力や工夫があるのだ。ときには涙があったりもして。世間には知られることはないけれど、その成果が商品として、店に陳列されているのである。

 ワタクシは神妙な心持ちで巻き寿司にかぶりついた。静まりかえったキッチンに小さな咀嚼音が響く。
 美味いじゃないか。
 ついに一言も言葉を発さぬまま、ワタクシは巻き寿司を完食した。
 なるほどね、さすがは多くの人たちの努力の結晶だ。非常に美味であった。その努力たちは集いに集って、今や聖性を得ているに違いない。そんなありがたい力を得たお寿司であるならば、食すことによって、莫大なご利益が得られる、という話にも納得がいく。もしかしたら、三日後ぐらいに道端で一万円札を拾ったりするかもしれない。


 「豆、投げよか」
 口を開いたのは父だった。いつの間にか、無言巻き寿司の儀を完了していたのである。父から豆を受け取った家族一同は、外に出て、思い思いの方向に豆を投げちらした。
 「鬼は外、福は内」
 何ということだ。巻き寿司のご利益だけに飽き足らず、豆投げによってさらなる幸福まで呼ぼうというのか。ははは、人間の欲には底がないことだなあ、これ以上幸福になったらどうなってしまうのか。油田とか金脈とか掘り当ててしまったりするのではないかしら。
 その後は誕生日だからといって別段変わったこともなく、普段通り、風呂に入って、歯を磨いた。学校から出された数学の宿題については「二次関数なんて社会に出てから使わねーよ」と思ったので、やらずに寝ることにした。
 
 でも、眠れなかった。いろんな疑問が頭の中で渦巻き始めたからである。
 なぜ、ワタクシの誕生日は晩飯が恵方巻きに固定されているのだろうか。
 ワタクシも家族も、別段、恵方巻きが好きなわけではない。それにワタクシ以外の家族のものが誕生日の際は、それぞれの好物が供されるのだ。でも、ワタクシのときだけは恵方巻きなのである。なんだか不公平な気がして、モヤモヤしてきた。無理やり、納得できそうな理由を探して納得してみる。
 祝い事には寿司が欠かせない。「寿」を「司る」と書くぐらいなのだからめでたいのだ。みんなで楽しく巻き寿司パーティー、というのも素敵かもしれない。よって、誕生日に巻き寿司を食らうのは良いとしよう。


 だが「恵方」なる方角を向いて「一言も喋らず食べる」ことには全く納得が行かない。
 想像してみてほしい。自分の誕生日の夕食に同席する人々が、誰が決めたかもわからぬ方角を向き、無言で別段好物でもない巻き寿司を、やたらとありがたがって食らっている光景を。みんなで楽しくワイワイ「巻き寿司パーティー」をすればいいじゃないか。DJなんかも呼んじゃって踊ろうよ。
 ところが、筋の通った理由もなく、無言で虚ろな目をして巻き寿司を食らう、奇妙珍乱な儀式が節分なのである。大体、恵方って何なんだよ。せめて、生産者様のいらっしゃる方角を向きやがれ。「恵方」という言葉自体も腹が立つ。発音よく「阿呆」と言ってるみたいで、非常に不愉快だ。やーい、恵方のアホウ。
 あと、子供のころにご飯で遊ぶと大人に「ゴルァ、飯で遊ぶなぁ!」と、頭にゲンコツを食らったものだが、なぜ節分の豆は投げてもいいのか。むしろ、大人たちが率先して、子どもたちに豆投げを教えているでないか。この矛盾をいかようにして説明してくれるのか――。
 
 ワタクシは気づいてしまった。自分の誕生日が、寿司屋とコンビニの陰謀によって破壊されていることを。

 布団のなかで怒りに震えているうち、一睡も出来ぬままに朝を迎えた。
 この日を境に、節分と決別、ワタクシは鬼サイドの人間として生活することを決めた。かくして、節分を憎み、恵方の逆を向いてはソーセージカレーを食らう、哀れな鬼が生まれたわけである。


 さらに節分との確執は深まっていく。巻き寿司と豆まきの儀によって得るはずだった「莫大なご利益」を受け取れなかったのである。それどころか、家計が困窮、就職先がブラック企業、仕事で二次関数を使用する羽目になる、正月にインフルエンザに罹患、恋人に手ひどくフラれる、などの憂き目にあった。
「ケッ、何が節分だ!」
 毎年節分がやってくると、ワタクシは鬼として荒んだ生活を送り、飛んでくる豆の嵐に耐えながら、スローガンを叫ぶ。
「鬼は内、福は外!」
 もしかすると、こんなことばかりしているから、ご利益が得られないのかもしれない。薄々感づいてはいる。(了)
 

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