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清酒の歴史について

透明な清酒の歴史を少し😊🎵。

有名な戦国武将であった山中鹿之助(※)の長男の山中幸元(新六幸元)は、父同様武運はなく、摂津国に逃げ延びるはめになりますが、自分は武将に向いていないと思ったのか、武士を捨て、商人となり、名前も、鴻池新右衛門直又(鴻池直文)と改めました。伊丹の地で慶長の始めに酒造業を始め、慶長4年(1599年)には江戸送りを開始、馬による輸送で、江戸送りの元祖とも言われています。

伊丹は元々濁酒造りが盛んな土地で、新右衛門はそこで苦労の末、芳醇な清酒造りに成功しました。1600年を少し過ぎた頃、つまり17世紀初頭のことで、それまで日本酒といえば、濁り酒が全てでした。従ってこれが、初めての透明な酒、清酒の誕生ということになります。

その経緯ですが、ある日、素行の悪い使用人を新六がきつく叱ったところ、その使用人は逆恨みし、酒樽に灰を投げ込んだのですが、しかしそれによって、樽の中の濁り酒は、芳醇な透明な清酒に変わっていました👀。これは、酒造りの過程でアルコールと共に酢酸が生じ、この酢酸が増え過ぎ、余計な酸味が加わったりしますが、この酢酸は、灰を加えると中和され、酢酸による酸味を抑えて芳醇な香りと味に変え、色まで美しい透明に変わる性質があります。

とはいえ、ただ灰を加えさえすれば良いというものではなく、酒にあった性質の灰をほど良い量とタイミングで加えなくてはいけません。逆恨みした使用人が投げ込んだ灰は、偶然にも性質、量、タイミング、いずれもピタリと合っていたのでしょう✨

最初は偶然でしたが、新六はその灰のメカニズムを研究し、やがて美味しい透明な清酒の製法を編み出すことに成功、江戸にそれを持ち込んで莫大な利益を上げました。これが、今も続く鴻池財閥の原点となったのでした👍

鴻池は、先祖を毛利家に滅ぼされたという因縁から、江戸期、毛利家だけには金を貸さなかったといいます。それが薩長が政権を握った明治維新後は逆に足かせとなってしまったのは歴史の皮肉でしょうか😅。備後鞆にある山中鹿之助の墓の補修に、当時の三和銀行(鴻池の後身、今の東京三菱UFJ銀行)が全くの支援をしなかったというのも、考えさせられるところではあります💦

※山中鹿之介(幸盛)について

山中家は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務め、京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれていました。山中家は山陰地方で活動し戦国大名となった一族で、山中家は尼子氏の一門衆で尼子氏の家老でしたが、1567年、尼子義久が月山富田城にて毛利軍に降伏、尼子氏は滅亡、義久ら尼子3兄弟は円明寺へ連行・幽閉されました。山中幸盛(鹿之介)は随従を許されず、主君と別れ、その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力、その後2度の尼子家再興運動は失敗、3度目には織田家を頼り、羽柴秀吉の下で尼子家再興を図ることとなります。

1578年1月、秀吉が播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入り、尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行きます。

1578年3月下旬、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方、4月に毛利は吉川元春・小早川隆景ら率いる3万以上の兵をもって播磨に進軍、秀吉は荒木村重らと共に1万の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣しますが、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられ、陣を引き払い書写山まで撤退、その結果、上月城は孤立無縁となり、城内の兵糧も尽き、同年8月8日 、尼子再興軍は毛利軍に降伏、人質となった幸盛は備中松山城に在陣する毛利輝元の元へと連行途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏の刺客により謀殺されたそうです。

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