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石川数正の徳川家出奔の謎

徳川家康の第一の重臣、石川数正の出奔の理由は、歴史上の謎とされています。秀吉の調略と考えるのが一番妥当ですが、筆頭家老の重臣の扱いを受けていた石川数正が、例え羽柴秀吉から調略を受けていたとして、安々と応じるかなぁというところです。一般的に三河武士は忠義や信義に厚く、主君に生涯忠誠を誓うとされていますが...。

ドラマであったような真田信尹が裏で糸を引いていた、ということは実際あったのでしょうか❓😅。

大河ドラマ・真田丸第14話について https://note.mu/n_hashimoto/n/n6f410d9573f6

以下は、自分と日本史に詳しい2名(+1名)の先生方で対談した内容です😁。

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橋本尚久 Y先生、K先生、M先生、今回はドラマ・真田丸第14話の冒頭であった、天正13年(1585年)11月13日の徳川家重臣・石川数正が突然行方をくらました謎の出奔について、活発なご意見よろしくお願いします。

K先生 よろしくお願いします。

Y先生 よろしくお願いします。

M先生 よろしくお願いします。自分は傍観者としてはますます面白くなるよ!。毎週楽しみにしていた解説がさらに楽しみに!週末はレースで関ヶ原に行っていたのですが、時間があれば陣跡を巡ってみたかった〜

橋本尚久 M先生、それは、是非関ヶ原古戦場跡を見ないと(笑)

【注】M先生とY先生は自分と同期で、K先生は5年上の先輩です。

一枚岩に見えた徳川家は実は二派に分裂していた

Y先生 やはり信康切腹事件が尾を引いたのではないでしょうか。この時期の徳川家は岡崎派と浜松派に別れていたようですし、それだけ家康と長男信康の対立が激しかったということなのでしょう。近年は信康は信長の命ではなく、家康の意志で殺されたという説が強いと聞きます。岡崎派であった数正が最後に徳川家に対して一矢報いた格好だと思います。

松平 信康(徳川 信康)は徳川家康の長男(嫡男)。信康切腹事件とは、織田信長の娘である徳姫は信康の妻となっていたが、今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされ、信長は徳川家康に信康の切腹を要求、徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあったが、信長の怒りを買う恐ろしさを考え、家康は築山殿と長男信康の処断を決断、まず築山殿が殺害され、さらに信康に切腹を命じた事件。元々石川数正は信康の後見人を務めていた。信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったとされている。

橋本 尚久 Y先生、ありがとうございます😄。岡崎派最後の報復説、なるほど......。確かにありそうですね。それだけお家騒動が深刻だったということですね。しかし、信康が自刃させられたのは信長存命中の頃でしたので、随分と尾を引いていた、ということになりますね。最後の抵抗も難しくなってきたので、出奔したということでしょうか...。にしては、最後まで扱いが重かったのは、石川数正がそれだけ重要人物であった、ということでしょうか。

橋本 尚久 K先生のご意見を是非伺いたいですね😉。自分としては反体制派の最後の生き残りのような人物に最重要機密である軍制を任せたりはしないような気もします。

徳川の軍の最高機密であった軍制を取り仕切っていた石川数正が出奔し、秀吉の元に駆け込んだため、徳川家は軍制をこれまでの三河流から甲州流に改めざるを得なくなった(それまでの軍制のままでは秀吉に軍の詳細な兵の数やその所在、兵の運用法など、一切合切全てが筒抜け状態になってしまうので)。

K先生 上に書かれている通り、岡崎派と浜松派の分裂は深刻で、織田信長の命令というところで、実のところは家康による信康の粛清だったのでしょう。源氏を名乗るからには親子の相克は已む無し。家康の勢力が東に延びるにつれ、三河の旗頭である石川数正の立場が不安定となり、家康からの粛清前に出奔したということではないでしょうか。石川数正の立場が悪くなっているという情報を嗅ぎつけた秀吉が調略を仕掛けたのでしょう。その秀吉のブレインは誰かなあ。

石川数正出奔に徳川家康はさほど驚かなかった?

橋本 尚久 K先生、早速にご意見頂きありがとうございます😄。確かに、石川数正の出奔に際して徳川家康はさほど驚かなかったと言われています。ということは既定路線で、つまり、石川数正は泳がされていた、ということになりますね。軍制の件についても、徳川家も領土も広がり、そろそろ新しい軍制を取り入れる頃合いだったので、新軍制反対派も抑え込めて、かつ旧武田の優秀な遺臣も活用出来、渡りに舟だった可能性もありますね。

石川数正出奔の影で暗躍したのは一体誰なのか?

橋本 尚久 この、石川数正調略のブレインは、やはり黒田官兵衛孝高ですかね

K先生 それなんですがねえ……。官兵衛さんは播磨の出身で東国のことはあまり知らないと思うんですよ。それならむしろ、東海一帯に地盤を持つ「川の者」・蜂須賀小六さんの方が地縁があるようにも思うのですが。でももひとつピンと来ない。とすれば、ホントに真田がブレインじゃあなかったか……とも思います。謎ですね。

K先生 信繁の大坂での厚遇を思うとね。(秀吉に対して真田に)たいした功績があるようにはみえないのに。

橋本 尚久 確かに、西国の播磨出身の黒田官兵衛は東国のことは良く分からなかったでしょうね^^;。ということは、真田昌幸の密命を帯びて、真田信尹が暗躍した、ということでしょうか。なんだか、ドラマのシナリオ通りになってきましたね(笑)

K先生 三谷脚本も、案外良いところをついてるのかもしれません。

橋本 尚久 其処まで分かってドラマのシナリオ書いた、としたら、三谷幸喜さん、恐るべしですね😅

秀吉の軍師であった黒田官兵衛はあり得ない?

Y先生 官兵衛は私もないと思います。ただ加津野昌春(後の真田信尹)は天正年間に豊臣家関係者と接触した記録がありませんし、活動自体は東国に限られてます。また関ケ原以降はほぼ本多正信の部下となります。石川数正の寝返りまでできたか…。うーん。

Y先生 むしろ織田信雄の家臣団が臭いと思います。この時期、信雄の家臣団こそ秀吉陣営の切り崩しに合っています。最終的に信雄の清洲領は没収され、家臣団は解体されます。その中から自立したグループが気になります。

橋本 尚久 Y先生、コメントありがとうございます。そこもう少し詳しく。具体的に言うと、織田信雄の家臣団のどなたでしょう😅

Y先生 もともと小牧長久手の合戦では、徳川家康と織田信雄は同盟関係にありました。家臣の相互交流もあったと思われます。その後、信雄だけ秀吉と和睦してしまい、家康は煮え湯を飲まされます。

Y先生 滝川雄利辺りが気になります。彼は北伊勢の関係者で、小牧長久手の後で信雄の筆頭家老になります。その後の秀吉側の取り次ぎとして家康と接することになります。もちろん、雄利だけではないと思います。第一次上田合戦頃に信濃で秀吉側についた小笠原貞慶と木曽義昌にも誰かが関与しているはずです。名門の小笠原家はともかく、木曽義昌あたりだとK先生の川並衆(蜂須賀、前野家)も十分ありえそうです。

Y先生 橋本先生のお陰でテーマがあって、楽しく考えられます!。発言しすぎてすみません!

橋本 尚久 Y先生、どうぞどうぞ、ご遠慮なく(笑)。この石川数正出奔は、所説あって、まだ真相は良く分かってませんから、非常に面白いです。

K先生 たしかに、滝川雄利は臭いですね。木曽義昌も可能性がありますが、家康関東転封の際、秀吉から見捨てられていることを思うとちょっとどうかなあ、と。

そもそも秀吉は石川数正の調略に関わっていない?

橋本 尚久 もし、誰かの暗躍で秀吉側からの引き抜きがあったとして、石川数正が秀吉から河内国内で8万石を与えられたというのは、徳川家康の筆頭家老まで勤め、軍の最高機密をも握っていた石川数正クラスの重臣にしては安すぎるような気がするのですが、如何でしょうか?😅

橋本 尚久 石高が少ないのは、豊臣秀吉が石川数正出奔を積極的に勧めたた訳ではなく、徳川家に居場所のなくなった石川数正が秀吉を頼り、豊臣秀吉にしても石川数正を断る理由もないので保護をした。だから領地が少なかった。そうは考えられないでしょうか?😅

それでも最後の一押しは真田信尹が関与した?

橋本 尚久 石川数正と真田信尹のつながりですが、資料がないので推測するしかありませんが、石川数正の秀吉方への出奔をけしかけたくらいのことはした可能性は高いような気がします。そのくらいのことはやりそうな御仁だからです。日露戦争で、ロシア革命を煽動した、明石元二郎大佐みたいな感じです。その極めて高い諜報謀略能力について、真田信尹はせっかく召し抱えられた徳川家を一度出奔、蒲生氏郷に仕えますが、蒲生氏郷が40歳の若さで亡くなると、再び徳川家に仕えるようになります。徳川家康は真田信尹の帰参を許したことを考えると、真田昌幸以上に食えない人物ではあるが、その能力を非常に高く評価していた証左とも言えます。つまり、その諜報謀略能力は折り紙付きと言うことです。

橋本 尚久 というわけで、石川数正自然出奔説(最後の一押しは真田信尹)を自分は取りたいと思います(笑)

Y先生 だから本多正信と組まされたんですかね。信尹の最終禄高は3000石。真田一門もあったでしょうこど、切れすぎて大名に出来なかったと考えるべきですかね。

K先生 石高が少ないと言うけども、徳川四天王は、別格の井伊を除いて全て10万石ですから、まあ、当時の感覚では妥当な石高だったのでは。それより対徳川最前線の信州松本に配されたことの方がキツイ。

M先生 3人とも面白いなぁ!

橋本 尚久 M先生、議論白熱してきましたよ(笑)

秀吉は徳川を非常に恐れ、真田を積極的に利用した?

K先生 秀吉の真田家への異常なほどの厚遇、そして信繁への偏愛(?)は、やはりなにか、真田家に功績があったものと思われます。眼に見える処遇(石高増量など)が無かったのは、その功績が「裏」のものだったからでは?

橋本 尚久 K先生、なるほど~!!

Y先生 滝川雄利も切れすぎで、最終禄高は2万石。しかも子供の代で断絶。知りすぎたのかも。大坂の陣も乗り越えたのに…。

橋本 尚久 秀吉は徳川家を非常に恐れていました。そこで、何としても真田家を味方につけたかったんですね。石川数正が霞んでしまうほどに。しかし、あの時点でよくそこまで真田家の情報を秀吉は入手していたなぁと、そのことが大変驚きです。

秀吉はどこから地方の大名でもない真田の情報を入手したのか?

K先生 実は、真田昌幸の嫁さんは、秀吉配下の尾藤知宣の係累です。その辺からの情報では??

橋本 尚久 そこから情報が漏れていたんですか^^;;

橋本 尚久 真田家の妻も内助の功で恐るべき働きをしていたことになりますね!(笑)。ちなみに尾藤氏は元々信濃守護・小笠原氏に臣従していましたが、小笠原長時が武田信玄に敗れて没落、本拠を遠江国引佐郡に移し今川氏に従っています。桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、父・尾藤重吉と長兄・又八郎は森可成、次兄・知宣は羽柴秀吉とそれぞれ織田氏の家臣に仕えています。永禄7年(1564年)頃には政略結婚で真田昌幸に長女を嫁がせています。以上、解説です。

橋本 尚久 しかし、この一連の話、内容が濃すぎますね!!(笑)。ただ、うっすらと真相が見えてきた気がします。

K先生 石川数正の出奔、豊臣家における真田の立ち位置、豊臣と関東諸大名の複雑な関係など、微妙な問題が多いからでしょうか。(*^_^*)

橋本 尚久 K先生、めちゃくちゃ面白いですよ。確かに秀吉の真田家への肩入れようは普通じゃないですからね^^;。今日は先生方、緊急ご参集頂きどうもありがとうございました。

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以上、お楽しみ頂けましたでしょうか😁。内容が濃すぎて、ちょっと分かりにくかったかも知れませんが、ご容赦下さい(笑)

ヘッダー画像転載元(石川数正像) : http://www.ippongi.com/2009/01/26/rindou/



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