擬態


 食堂のテーブルに一枚の便せんが胡椒の小瓶を重しとして置いてあった。
 そこには几帳面な字で、
『私を探さないでください』
 と書かれてあった。
 手代木欣司は何が起こっているのか理解できなかった。しばらくの間、便箋の文字の意味を考えてみた。
 ━━まさか……。
 欣司は胸騒ぎを覚え、寝室に向かった。そしてようやく妻が出ていったことに気づいた。妻の持ち物やら洋服などきれいになくなっていたからだ。
 ━━なぜだ。何が不満だったのだ。

 欣司と瑠璃子は二年前に見合い結婚し、特に波風もなく平穏な生活を送っていた。欣司は大手の会社に務めるサラリーマンで、給与も人並み以上にもらっている。瑠璃子は専業主婦としてかいがいしく夫に尽くしていた。
 だから欣司も平凡ではあるが幸せな家庭を築いていると自負していた。もし不満があるとすれば、親の決めた見合いに妥協してしてしまったことぐらいだろうか。瑠璃子は確かに美人ではない。欣司もまた月並みな男だ。だからというわけではないが、互いに燃えるような恋をして結ばれたわけでもない。そんなところが不満といえば不満だった。

 欣司は瑠璃子の実家にも行った。
 実家には誰もいなかった。
 瑠璃子の父は昨年、交通事故で亡くなっていた。母もまた三カ月前に癌で亡くしている。もしやと思ってきてみたが無人のままだった。
 欣司は親類や友人など八方手を尽くして探したがようとして行方はわからなかった。 

 瑠璃子がいなくなって一年がたった。
 欣司は瑠璃子のことを思い出すこともすくなくなっていた。
 一人、酒場で酒を飲んでいた。瑠璃子がいなくなって飲みに行く回数が増えたことは確かだった。
 今日も、カウンターの片隅で冷や酒をコップに注いでいた。
「どうしたんですか。奥さんにでも逃げられたんですか」
 隣で静かにカクテルを飲んでいた女性が声をかけてきた。
 暗い店内なのでそれまでは気づかなかったが、ほのかなライトに照らされて映えるようなかなりの美人だった。
「え、いや、まだ一人身です……」
「あら……ごめんなさい。てっきり結婚なさっていると思ったものですから……」
 女性は悪びれもせずにそういうと、また静かにグラスを傾けた。
 欣司はどこかであったような気がしたが思いだせなかった。
「あのう……」
「はい」
 女性は小首を傾げて欣司を見つめる。
「以前、どこかでお会いしましたか」
「いいえ、今夜が初めてですわ」
 彼女はきっぱりと否定した。
「そうですか……」
 欣司はまだ言葉を続けようとしたが、彼女は「ごめんなさい。今夜は約束がありますので。またお会いするかも知れませんわね」
 と、席を立った。
 欣司は後ろ姿を見て均整の取れた体に見とれてしまった。
 瑠璃子の少々太りぎみで締まりのない体形と比べてしまった。
 ━━月とスッポンだな……。

 翌日、少し、期待を持ちながら昨夜のバーをのぞいてみた。
 終日粘ってみたが美女は現れなかった。
 欣司は落胆した。会えないとわかると余計に会いたくなるものだ。欣司は布団に入っても美しい彼女の面影をまぶたに浮かべながら明日こそはと思うのだった。
 欣司はバーに行く目的が変わっていた。酒を飲むことより、もう一度彼女にあうために毎夜通い始めた。会えなければ会えないほどその思いは強くなっていった。

 一週間たったが、今夜も現れない。
「最近、どうしたんですか。毎晩いらっしゃるのね。あの美人がお目当てでしょう」
 バーのマダムに見透かされている。
「いや、まあ、そんなところかな」
 欣司は否定しなかった。ひょっとして知っているかもしれない。
「彼女のこと知ってる」
「いいえ、初めてみる方でしたわ」
「そうですか……」
 あきらめて帰ろうとしたとき、ほのかな香水の匂いに振り返った。
「あら、今夜はもうお帰りですか」
 くだんの美女がニコリと微笑んでいた。
 彼女はシックなブラウスとスカートを粋に着こなしている。
「あ、いえ……そんなことはありません。まあ、どうぞ」
 欣司は満面の笑みをたたえて促し、彼女の隣に坐った。
「まあ、付き合ってくださるの。お帰りになるんじゃありませんでしたか」
「ええ、まあそうですが。でもこんな美人をおいて帰れるわけがありませんからね」
「まあ、おじょうずですこと……」
 くだんの美人は口に手をあてほほほと笑った。
 瑠璃子のように大口をあけて笑うのとは違って笑い方にも品がある。
 欣司はマダムにやったとばかりにウインクした。
「さあ、カクテルでもいかがですか」
「ええ、いただくわ」
 とりとめもない話に興じながら、欣司は美人の素性を知ろうと時々質問を投げかけた。
「お連れの方はいらっしゃらないのですか」
「ほほほ、さあ、どうかしら」
 指輪をしていないところをみると独身のようだが、するりとかわされる。
「どちらの出身ですか」
「田舎ものにみえます」
「いいえ」
「うふっ。それよりあなたのことを知りたいわ」
 と彼女は自らを語ることはなかった。逆に欣司は自分のことをあれこれと話すはめになった。もっとも女房に逃げられたことはさすがに言い出せなかった。

 それから時々、デートを重ねるようになった。欣司はすっかり謎の美女の虜になってしまった。
 そして、彼女の前で、すべてを話すのだった。
 彼女は熱心に聞いてくれた。
「妻とは見合い結婚で、あなたのように美しくはなく、なんの取り柄もないつまらない女でね。スタイルは悪いし、仕方なく結婚したようなわけでね」
「まあ、そんなこと、奥様に失礼じゃありません」
「まあ、確かにそうかもしれませんが……」
「奥様を愛していらっしゃらなかったんですの」
「ええ、そうですね。愛していたとはいえませんね。でも今は……」
 欣司は燃えるような目で彼女を見つめた。
 欣司は彼女を高級レストランに誘った。
 そこで告白するつもりだった。
 彼女に断られるかと不安だったが、心配することもなく快く承諾したのだった。欣司はヤッターと心で叫んでいた。きっとこの恋は成就すると確信した。

 海が見える夜景のきれいなレストランで欣司と玲子は向かい合って坐っていた。このときにはすでに名前も住まいも彼女が告白していた。
 名は藤玲子。住まいは世田谷の旧家で先祖は武士の出であり今は落ちぶれているが広い屋敷があり一人で住むには心細いと、今は都心のマンションに住んでいるという。

「玲子さん、愛しています。結婚してください」
 欣司は頭を下げ両手に小さな包みをささげるように差し出した。
 玲子は包みを受け取り蓋をあけた。
 中にはダイヤモンドの婚約指輪があやしく光っていた。
 玲子は笑顔で指輪と欣司の顔を交互にみていた。
「うれしいわ。でもどうして、私と結婚したいのか、理由が知りたいわ」
 相変わらず顔はにこやかだが、そう聞かれて欣司はちょっと妙な気がした。当然、ハイと返事を期待していたからだ。
「それはあなたのような美人で素敵なかたですから……」
「あら、私が美人じゃなかったらだめなの」
「いえいえ、そんなことはありませんが……」
「世田谷に邸宅を持っていなかったらどうなさるの」
「いえいえ、邸宅なんか必要ありません」
「もし、なんの取り柄もなくつまらない女でしたらどうされます」
 欣司は玲子が何を言っているのかわからなかった。
「そんなことは……」
「もし、スタイルが悪くて大口をあけて笑う女だったらどうされます」
「あの……」
「もし、一生懸命つくった料理でもおいしいと一言もいってくれなくて、影で泣く女だったらどうされます」
「え……」
「もし、仕事が忙しいときに、旅行にも連れていってと頼むような女だったらどうされます」
 欣司はたたみかけるような質問にたじろいだ。まるで失踪した妻の姿ではないか。
「いったい、君は……」
「まだ、気づかないの。あなたの妻の瑠璃子よ」
「あっ」
 欣司は絶句した。
「整形手術したのよ」
 瑠璃子の顔からは笑顔はとっくに消えていた。代わりに冷え冷えとした眼で欣司を見つめていた。
 欣司は茫然とし、体中から油汗が噴き出してきた。
「これが私からのプレゼントよ」
 瑠璃子は一枚の紙をテーブルの上に広げその上に婚約指輪のケースをおくと立ち上がった。
「もう二度と会うこともないでしょう。さようなら」
 瑠璃子は振り返ることなくレストランを後にした。
 一切手を触れていない豪華な料理のかたわらにおかれた紙から欣司は目をあげられなかった。

『離婚届』

 瑠璃子は夜の街を足取りも軽く颯爽と歩いていた。
 男たちはそんな彼女をみて一様に振り向くのだった。 

           おわり

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