シュレディンガーの生き死に / 20200621

咄嗟、刹那、コンマ一秒の次元なんだけど、どうしても”死”が一日に何度も何度も過ると、本当に僕死にたいんだなあ、と勘違いしそうになる。死が思考の癖になっているんだと思う。三大欲求、睡眠、食、死。そろそろ寝ないと、のノリでそろそろ死にたくなり、お腹が空くように死にたくなり、息をするだけで、ただ意識があるだけで勝手に脳が死という結論を導き出す。誰もそんな許可は下してない。勝手なことしないで。死んだら何もかもお終いじゃないか。自分の人生の先にもっと楽しいことがあるんじゃないかと変に期待してしまうから、僕はまだ死にたくない。あと何十年か生きてみて、楽しいことなんかなかったじゃないか、生きているだけ酸素と食料と水を浪費した、地球にとってマイナスだ、お前なんか処罰にも値しないから広大な自然で野垂れ死に動物に食われ土に還れ、人間様の手を汚すな、煩わせるな、そう自他ともに罵詈雑言を浴びせられるのかもしれないけど、それと同時に生きていてくれてありがとうと言い合えるような何かに出逢えるかもしれない、僕にとって将来や未来なんてのは、シュレディンガーの猫が入った箱と同じだと思う。僕が死んだ場合、その箱を焼き捨てて、猫が生きている確率を0%にしてしまう。それを今は生きている限りは50%残しておくことが出来る。箱を開けなくとも。そのたった50%、されど50%が惜しくて、ずっと死ねないままだ。あほらしい。

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