そんなん誰でも孤独やんか

 苦しんでいる人間がみな安らぎを求めているわけではない、いっときの救済は次の絶望へ至るまでの助走でしかなくて、救われるよりも救われないまま全てをなげうってしまったほうがどれだけいいだろうと、刃物を握ることにすらいまだに恐怖を覚える私の脳がささやくのです。

↑昨日の朝5時位に書いた文章

 普通の人は死にたくならないらしい、って何?普通とは?自分は死にたくならない人を羨ましいとは思わない。自己嫌悪に襲われながらも残ったプライドが己が己であることを誇れと繰り返し言い聞かせてくる。だから別にどうなりたいとは思わない。相談ダイヤルも啓発本も精神科も興味ない。死にたさにしばし埋もれ時間を割きつつ延々と続く生をスタンド・バイ・ミーみたいに歩いていくよ。その先に死体はありません。死にたくなりたくないとか明るく生きたいとか(そんなに暗く生きてもいないけど)誰か別の人になりたいとかそういうのはない。なるようになる、という言葉は行動力の欠如を埋め合わせるのにちょうどいい形をしている。色んなことが自己責任で片付けられるし、大抵のことは無理矢理に責任転嫁することもできる。倫理と自我のバランス、保てていますか?
 ネガティブな感情がきれいさっぱり消えたら視界は開けるのか、と考えることはある。憑き物が落ちたようにこの怠惰もなくなって、もっと歩調を早めることができるんだろうか。ずっと遠くまで行きたいのに
 
 それよりも先に長い長い夜が唐突に訪れて、春と夏と秋がなくなって、心が掛け布団と敷き布団の間に埋もれてしまったら、色んなことがどうでもよくなるのにな
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