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【#1】自己紹介_高校選択までの道のり

鹿児島の坊津ってところで生まれた。

昔から日本の高齢化社会の最先端を走っているところだ。つまり、超ド田舎だ。
信号もないし、コンビニもない。
子どもは少ないし、そこで仕事を営む大人も少ない。超ド田舎だ。

それでも、歴史だけはいっぱいあって、僕らが中学生のときの社会の教科書には「坊津」っていう地名が載ってて、鑑真にゆかりのある土地で、いろんな史跡がいたるところに残っている。唯一誇れるものは、海に沈む夕日がめっちゃ綺麗で写真家の人たちが集まるスポットになっているってこと。つまり、超ド田舎だ。

そんな坊津で、1991年に生まれた。
地元で飲食店を営んでいた両親のもとで育てられた。その飲食店があるところはもともと番所っていう海の監視のための場所だった。だから海の眺めはすごく綺麗で、そこから眺める夏の海は青々しててとても好きだった。

そこの近くの保育園に通っていた僕は幼少期をオーシャンビューな場所で過ごしていた。(大人になって初めて、すごく良い眺めの贅沢な場所で育ったんだってわかった笑)

小学校は、元お寺という場所にあった。小学校の時の記憶はほとんどない。覚えていることと言えば、ひたすら漢字を見本通りに書き続けたこと。50字に約7-8時間をかけていたそうだ笑
(そのおかげで字が上手くなったかというと決してそうではない。努力は裏切るものだ)よくやった遊びは1人自転車で同じところをぐるぐるまわること。
まぁそれだけ、変なこだわりが強かった少年だったってことだね。

スポーツは嫌いで、運動会のかけっこはいつも後ろから数えた方が早かった。成績はまあまあ良かったから、特に問題なく学校生活は送れていました。
両親が経営している飲食店に学校の先生が良く食べに来ていたから、両親の手伝いがてら、その頃から先生という生態を観察してた。
両親の手伝いをするのが日課で、休みの日はそのお店で、手伝いをするか宿題をするか、もしくは1人で遊ぶことが多かった。今思うと、もっと世間を見に行く機会があればよかったのにと少し後悔してる。

クラスでは目立つほうではなく、両親の手伝いをしているお利口さんな子どもっていうのが、僕を客観的に見たそのときの印象だろう。

でもそんな僕にも転機は何度か訪れた。

1度目の転機は小学5-6年生のとき。今まで、短距離走よりは少し得意かな?と思っていた長距離走が急に得意になった。スポーツは何もしてなかったのに、6年生の時には学年で2番になった。単純に嬉しかった。
中学校では陸上部に入りたいと思っていたが、子どもの人数が少なかったせいか陸上部はなく、しかたなくバレー部に入った。
それでも、1人で長距離走の練習を続け、中学2年生のときには駅伝や長距離走大会で活躍できるようになった。自分のアイデンティティを求めるかのように長距離走にのめり込んだ。

高校を選択するのも長距離の強い陸上部がある高校をメインに考えるようになった。陸上部がないため主要な大会にだけ出るようにしていたが、県内でもそこそこ戦えるレベルになっていた。中学3年のときには幸い県内の強豪校から声をかけてもらえて、そこへの進学も少し考えた。しかし、中学3年生の1学期に父親を亡くしたため、母親と妹を残し、1人寮生活をするわけにもいかなくなっていた。

そんな中、中学3年12月にあった長距離走大会である先生と出会う。近くの私立高校の駅伝部の顧問だった。ご自身も駅伝を走りながら、指導をされているということに魅力を感じ、出会ってから数日後、その私立高校を受験することを決意した。しかも、推薦入試で…12月末での判断だったため、担任の先生はバタバタだったろう。今さらながら、当時の担任の先生には感謝しかない。

その駅伝部は女子チームしかなかった。つまり、男子部員は0で私が初めての部員だった。駅伝なんてできないかもしれない。でも、実家から通えて、高いレベルで駅伝ができ、かつ進学コースの普通科にも通えるという条件が決定打だった。

入試は合格。もともと行くつもりはなかった学校だったので、もちろん体験入学にも行ってない。どんな学校かも知らず、入学を決めた私は、当時から思い立ったが吉日の精神が宿っていたんだろう。

つづく

#自己紹介

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