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信濃先方衆 芦田信守

#芦田信守
騎馬150騎持ちの大身
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https://youtu.be/WSG17ZF4pFI?si=SPlTgLW9N8v2CDrQ

#芦田信守
騎馬150騎持ちの大身
芦田氏は
土豪依田氏の一族であり
信濃国小県郡(佐久市)の国人

独立領主だったが
守護代大井氏に臣従していた

南北朝時代から室町時代にかけて
依田氏は
室町幕府
評定衆、奉行衆、奉公衆
に少なくとも一党から9名が加わっている。

中でも評定衆に21年就いた
依田左近大夫時朝は
足利尊氏の一周忌を取り仕切っている。

1402年
幕府は依田氏に在地を命じ
1436年
依田左衛門尉経光が芦田郷に進出
※進出時期については諸説あり※


その子、備前守光徳から
芦田性を名乗る

戦国時代の
芦田氏はここに名を表す事となる

1541年(海野平合戦)では
滋野3家の一つ
海野氏と行動しており
戦には敗退
信守は諏訪頼重に捕らえられ
従属する事になる
この時10歳に満たない年齢だった。

しかし、その翌年
小県国衆の後ろ盾であった
関東管領上杉氏と頼重は単独で講和
同盟関係であった武田家との関係が破綻
諏訪領内で合戦となる
(桑原城の戦い)

前年の戦いでは轡を並べて戦い
同盟関係にあった両家だったが
信虎を追放し武田家の当主となった晴信は
敵対関係にあった上杉氏に接近した
諏訪氏を攻め
1年もかからずに攻め滅ぼす事になる

その後
信守は芦田城から春日城に居城を移し
1560年
正式に武田家に臣従し
信濃先方衆として
各地で活躍する事となる。

騎馬150騎持ちは大身で
芦田勢は信濃先方衆として
時期によっては
最大の動員兵力を抱えていた、
先方衆では筆頭格の
真田家に比肩する勢力として
扱われている

最大の激戦となった
第四次川中島の合戦(八幡原の戦い)では
妻女山攻撃部隊の別働隊に加わっている。

これには
真田幸隆、
同族の相木市兵衛等の名が見えることからも
小県郡の信濃先方衆の多くは
妻女山を降り八幡原に到着後
越後勢を
追い討ちして手柄を上げた事になる


小県郡から
北信濃川中島平まで東北信濃一帯を支配するに至った武田軍は西上野に進出
北条氏に備えるため
1566年武蔵国境沿いの浄法寺を信守は預かり
周辺を知行地として
長子信蕃と共に武蔵国御嶽城に在番、
最前線の国境を任せられ
信濃先方衆の大身として
信玄からの信頼は厚かったことが窺える

1568年
武田、今川氏の同盟が破綻すると
武田信玄(晴信)は駿河に侵攻
駿河国薩埵峠で合戦となる
(第一次薩埵峠の戦い)

初戦、峠で迎え撃つ
今川勢はよく守ったが
既にこの時、
信玄により重臣級の家臣が調略されており
武田方に内応する姿勢を見せた。

清見寺に本陣を構えた
今川氏真は危機回避のため撤退、
これにより
武田勢は薩埵峠を一挙に突破
その日のうちに
駿府に入る事になる。

氏真は遠江国の掛川城に落ち、
重臣朝比奈泰朝の保護され
ここに戦国大名としての今川家は
長く統治した駿河の支配権を失うに至った。

信守、信蕃が率いる芦田勢も
信濃先方衆として一角を成し
薩埵峠、駿府城攻略戦で活躍した。

駿河から遠江の半分を抑えた武田勢は
1572年
西上作戦を開始
同年、遠江国二俣城を攻め落とした
信玄から信守は城代を任じられる

一連の作戦で
信玄の命にて
伊那郡代 秋山虎繁は美濃国に侵攻
芦田勢は相備、
岩村城を降伏させる

これに激昂した
信長は5千の兵を奪還に向かわせた。

率いる将は遠山景行

武田勢は
700名の
芦田信守、信蕃が迎え撃ち寡勢ながら
遠山勢を打ち破り
景行を討ち取った
※諸説あり

これは端的に
芦田勢の精強さを示している

長子信蕃は
1573年
三方原の戦いにも参陣。

信玄没後
引き続き武田家に仕え
勝頼麾下で二俣城代を務め
1575年
長篠の戦いには参加せず
国境を固める役を担っている。

同年
長篠の戦いで本軍が敗れると
遠江国では最前線となった二俣城には
徳川勢が攻勢を強める。
が、
信守をはじめ
信蕃、信幸兄弟を中心に鉄壁の守りを見せる

そして
信守はこの籠城戦の最中
城内にて病没し
波乱の人生に幕を閉じた

芦田勢は
信蕃が城代を引き継ぎ
弟信幸がそれを支えた

そしてこの籠城戦は実に
半年間に及ぶ。

度重なる徳川方の降伏勧告には応じず
和睦の運びとなる。

条件として
城兵全員の助命、
勝頼の命令であれば開城する旨を
徳川家康に伝え、
遂に城を明け渡した。


開城当日
雨が降っていたため蓑笠姿では見苦しいので
日を改める旨を申し入れ、
その3日後、
自領を行軍する様に堂々と芦田勢は撤退した

徳川勢が接収のため入城すると
城内は隅々まで
理路整然と整理整頓がなされていた

これは
信守、信蕃の
節度、忠節、武勇を示す逸話として
家康重臣の
大久保忠世がその様子を家康に伝えている


信蕃は武田家滅亡の際も
駿河国、田中城にて降伏勧告に応じず
最後まで城を守り抜き
勝頼父子が天目山にて戦場の露と消え
本懐を遂げた事を知らされ
その後
武田宗家を継ぐ事となっていた
穴山梅雪の命令をもって開城し
この時も並々ならぬ忠義を示している。

織田軍による
武田家残党狩りから身を守るため
徳川家康の勧めに応じ
一時的に遠江国に身を潜め
恩を受けた信蕃は
それに従い活躍する事になった。

この後の事だが
信蕃の
長子康国は松平性を与えられている

芦田信守の振る舞いは
天下人となった家康にも
尊敬の念を
持たれたのであろう。

武田旧臣を多く召し抱えた
家康だが
松平の姓を許した外様は限られていた。

信蕃については
別の機会に。

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