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ハードロック&女王蜂&民族音楽好き音楽ライターの映画『犬王』お気持ち表明

映画『犬王』見届けてまいりました。まずは一言、すっげえ良かった。
めちゃくちゃ良かったのですが、様々な方の感想を読むうち「ちょっとこの映画の音楽について俺にも一言いわせてくれ!」と思ったので、筆を取ろうと思います。

なお、本記事にはネタバレが含まれているような、いないような気がしますので、お気をつけくださいませ。

まずはちょっとした自己紹介

ライターの安藤さやかと申します。
音楽科高校・音楽系大学出身、世界の民族音楽と音楽史が好きで、クイーンで卒業論文を書きました。
女王蜂は全アルバムを聴き、1度だけライブに行ったことがあります。

まあその、「ちょっと音楽史に詳しい人」と思ってください。

映画『犬王』の音楽にまつわる世間の批判

本作の音楽については、主に3つの批判があると思います。

1.なぜ古臭いHR/HM調なのか。日本の伝統音楽を使うことはできなかったのか。

2.画面に映る楽器と聞こえる音が合っていない。琵琶からエレキギターの音が聞こえるのはおかしい。

3.歌詞が聞き取れない。歌詞を表示してほしい。

これら3つの批判は、どれもごもっともではあると思います。特に3については私も強く感じました(歌詞が聞き取れないというより、麗しい映像に意識を奪われてしまうという意味で)。

ただ、歌詞が表示されないことで2度3度と観に行った人はいるでしょうし、文字情報が映像の邪魔になることは確か。今後は字幕アリ上映の予定もあるようなので、期待大です。

ところでこれは余談なのですが、「どうして曲がクイーン調なの? 映画『ボヘミアン・ラプソディ』のヒットにあやかってるの?」という批判については、「主演が女王蜂(“QUEEN” BEE)のヴォーカルだから」という大胆な洒落が成立すると思います。

映画『犬王』の音楽はなぜ70~80年代HR/HM風なのか

本作で犬王と友魚が歌う音楽は、70~80年代の洋楽ハードロックおよびヘヴィメタルを参考に作られています。
このことについて、「古臭い」「必然性が無い」「もっと日本の伝統音楽寄りで作るべきでは」という批判があるようです。しかし、その批判は制作陣もわかっていたことでしょう。
では、なぜ本作の音楽には70~80年代HR/HM調のものが採用されているのでしょうか。

まず最初に、アヴちゃんが所属する女王蜂というバンドは、クラシカルなハードロックと親和性が高いバンド。近年はディスコ調の作品が増えていますが、アルバム『奇麗』まではギター主体のゴリゴリな作品を作っています。

そんな楽曲を普段から歌っているアヴちゃんが映画『犬王』で70~80年代HR/HM風の音楽を歌うのは、得意なジャンルを伸び伸びと歌っているようなもの。女王蜂の音楽を知っている方は、ハードロック系の楽曲を自然に受け入れているようでした。

次に音楽史的視点から。映画で描かれた時代には、当然ハードロックなんて生まれていません。
しかしそれ以前に、この時代の日本の音楽には「伴奏」「ハーモニー」という概念すら希薄です。つまり合奏では、奏者全員が(ほぼ)同じメロディを一斉に演奏していました。

劇中でも、犬王たち以外が演奏する音楽は伝統に則った形式となっています。
そして楽曲を構成する「音(音階)」も現代より少なく、メロディ自体が現代のものと違います。
この傾向は室町時代どころか、明治時代の頃まで続きました。

一方で、私たち現代日本人は伴奏とハーモニーがある音楽で育っています。その私たちが「歴史的に正しい音楽理論で作られた犬王&友魚の斬新な音楽」を聴いたところで、劇中の民衆のように“音楽の斬新さ”を感じることができるのでしょうか?

多分、できません。描写としては正しくても、見ている現代人の大半は感覚的な“斬新さ”を掴めず、民衆に共感することができないのです。

そのギャップを埋めるのに、ロックというのは良いツールだと思います。友魚が橋の上で歌い出すまで、劇伴以外の劇中音楽は全て時代に合ったものでした。
そんな中に友魚や犬王が歌うロックが流れてくると、見ている人はごく自然に「こりゃ斬新だわ」と感じ、熱狂する民衆に共感できます。これは作品において、とても大切な要素と言えるでしょう。

また、近年ではロックやメタルは“カッコいい音楽”となっていますが、古くは「不良の音楽」どころか「被差別階級の音楽」。これらの音楽は学歴を持たない労働者階級の若者が切り拓いてきました。
その姿は、貧しい農村に生まれて盲目となった友魚や、醜く生まれて虐げられた犬王の姿とも重なります。
途中、友魚が女性の装いをしていたのも、1970年代に英国で流行したロックのスタイル(グラム・ロック)を踏襲しているのでしょう。“異性装”が社会への反抗の象徴となることは、歴史上たびたびありました。


「音楽のデフォルメ」という考え方

犬王たちの時代には、ベースやギター、ドラム、シンセサイザーがありません。もちろん劇中でも、彼らはエレキギターやシンセなんか演奏していません。

実のところ犬王一味の演奏シーンでは、画面上に映っている楽器の数と、鳴っている楽器の数が一致しません。「楽器Aから楽器Bの音が聞こえる」というより、常に楽器数が多く聴こえてきます。

これをどうとらえるか。私は「当時の音楽理論に則って作曲された楽曲に、ベースやギターなどの音を後付けしている」と脳内補完しました。

画面の中の犬王たちは、実際にはあくまで当時の音楽理論の範囲、つまりベースやハーモニー、ビートがほとんどない音楽を演奏しており、劇中の観衆もそれを聴いている。
しかしそれでは“画面の外のリスナー=現代人”への訴求力が弱いので、映画の演出として現代人が伴奏を後付けしている。

……と、そういうふうに考えれば、劇中のロック風の音楽には違和感がそこまで生まれません。メロディは五音音階とまではいかなくとも、かなり近い印象になっていました。伝統的な形式で弾けば、じゅうぶん古典的な雰囲気になるでしょう。

ちなみに、「伝統的な音楽に伴奏(だけ)を後付けすれば現代的な音楽になる」ことは実証されておりまして、その第一人者たるバンド・民謡クルセイダーズは、原曲である民謡のメロディをほぼそのまんま使いながら、見事なスカ風に仕立て上げています。映画『犬王』でも、これと同じことをしているというイメージです。うまく伝わるかな。

私は『犬王』の音楽表現を「音楽のデフォルメ」と考えています。
漫画やアニメで描写されるピンクの髪、顔の半分もある大きな瞳、不自然な頭身やプロポーション、美男美女の姿は現実とかけ離れていますが、全てデフォルメ表現として受け入れられています。

これと同じことが音楽にも使えます。時代考証をしっかりして現実的に作ったところで、“劇中の観衆”と共感できる鑑賞者はごく一部。そこにデフォルメ表現としてハードロックの理論を用いることは、アニメでヒロインの髪をピンクに塗るように、芸術的な必然性があります

批判の通り、室町時代のスターがハードロックを演奏することは「違和感」でしかありません。そんなわけがないんですから。日本の音楽に“伴奏”の概念が定着したのは明治時代の頃です。
しかし「なぜ本作ではハードロックを使ったか」ということに関しては、おかしなことでもありません。

それに何より、『犬王』のアニメーションにはかなり癖があります。グロテスクな仮面や、腐臭漂う漁村、粘る涎の表現は生理的嫌悪を呼びますし、細かなところには山口晃や束芋の作品に似た、美術館で展示されているアートアニメーションの空気を持っています。
その中で耳慣れたハードロックの響きが聴こえてくるのは、高尚さと大衆性のバランスという面でかなり巧い。仮に本作の音楽が前衛音楽・アングラ音楽寄りならば、置き去りになった観客も多くいたことでしょう。


結論

森山未來の歌声も最高ですが、とにかくアヴちゃんの歌声のカリスマ性が凄い。本職声優ではなく、歌声でのし上がった現役のロック歌手を起用する意味がここにあります。
また、演技面でも申し分ない。アニメーションは完璧。こりゃ見るっきゃないですよって。

映画『犬王』は「良いor悪い」ではなく、「合うor合わない」の作品です。良いか悪いかで言って「悪い」と答える人はほぼおらず、自分に合う・合わない。ただそれだけ。
でも、「私に合うかなあ……」で見逃すのはあまりに勿体ない。仮に合わなくても、観たことを後悔する作品ではありません。
劇場で公開しているうちに、ぜひ駆け込んでみてください。
そして音楽にも、ぜひ注目してみてください。
もしよかったら、日本の伝統的な音楽も、ちょっとだけ聴いてみてください。


ところで友魚の琵琶が古い云々のセリフって、クイーンのギタリストが廃材から作ったギターを使い続けてることへのパロディだよね。


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