伝説の金貨②

    私は、これまでの人生で、見返りのない振る舞いや、施しをしてきたことがあったのだろうか。
    私は電車内で、移ろいでいく景色を見ながら自問自答した。
    朝の通勤電車は混んでいた。
   仕事は、労働の対価として給料を貰っているのだから、たとえいくら素晴らしい仕事をしても、それは無償とは言えない。
    ボランティアはどうだ。
私は、ボランティアに行ったことがなく、これまでも、これからもボランティアの必要性も感じることはないだろう。
    なぜなら、ボランティアの中でも特に海外で、貧しい国のために、いろいろなことをしていますっていう人やそれを映し出す番組や情報に対しては甚だ疑問を持つことが多かったからである。
    私は車内を見渡した。
     ほとんどがサラリーマンである。
みな必死に何かに耐えて生きていると私は思ってしまう。
    この私が周りのサラリーマンに目を向けたところ、携帯電話を操作している人間、居眠りしている人間がほとんどだった。
    それだけを捉えて、だらけていると言えるのだろうか。
    この瞬間しか見ることができず、一日の大半は、汗水流して働いているかもしれないからだ。
    横に座っている女性も今は、携帯ゲームに熱中しているが、それが彼女の全てをあらわしているのではない。
    断片で人を判断することは間違えている。
    それを踏まえて、ボランティアについて思うことがある。
   私の偏見であるが、海外に行った人は自己の家庭、親の介護、近所付き合い、PTA、自治会など、そういったことから目を背けている気がする。私は、海外に行ってますっていうことだけで自分は壮大なことをしていますという自己陶酔している人間が多いことに辟易していたからだ。
    しかし、私はどこかに、そういった逃避行の果てに喜びや生きがいを見いだせることがあるということも事実だと思った。
    うらやましい感じがあり、多少の嫉妬心も芽生えてしまうのもまた事実である。
    だからといって、問題が山積みである日本や故郷を放ったらかしにしてまで行かないといけないのか、と思ってしまう。
    まずは、町内会実施のドブ掃除から始めてみては❓と思わざる得なかった。
    海外にいけば、最初は訳も分からず、目標も抽象的なことが多く、新鮮な生活の中で、つかの間は輝くだろう。
    しかし、自分は、その歯車の中にいるつもりで貢献している気になっているが地元の人々から見れば、客人にすぎない。
   また、その地にいる時間が長ければ長いほど、細かい具体的な問題が浮かび上がってくるだろう。そういった時、日本人は現地の為に本当に頑張れるのだろうか。失敗や挫折をすれば、また日本に帰ればいいという保険を残していないか。
    私はいつもそう思う。
    なぜ世界にばかり目を向けるのか、まず隣人、地域、国をみるべきなのではないか。

    いろんな生き方があるので、批判したくはないが、私のボランティアに対する考え方はこうであった。

   小さなことから始めるべきだ、いや何もしなくてもいい。極論としては、住んで働いていればそれだけで、税金を支払い社会のためになっている。ただいるだけで、それが悪や怠慢と言われてしまう社会では、やはり海外に逃げ場を求めたくなるのではないか。
   私はぼんやりと考えていた。
こういった事をあの老婆に会ってから、考え出し始めた。

   無償の施しとは何だろうか、戦争中における特攻隊みたいなのは、どうなのであろうか。

つづく

#小説


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