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歴史は鹿児島から動いた


島津家の家紋

歴史の舞台・鹿児島

鹿児島の昔の国名は薩摩と大隅ですが、現在の鹿児島市のある地域が薩摩だったので、鹿児島全体を薩摩と言うようになっています。鎌倉時代から江戸時代まで島津家が治めており、関ヶ原で減俸、領地替えをされなかった藩です。薩摩藩は一度もどこかの軍門に下ることはありませんでした。戦国時代に豊臣秀吉から味方に付くか敵対するかの選択を迫られ、味方となり、秀吉が天下統一を果たした経緯はありますが、島津家の独立は守られています。
そして、江戸時代に完璧な封建制度が確立され、各藩の力は最盛期に比べてどこも衰えていましたが、薩摩藩だけは琉球貿易で富を形成し、力を蓄えていました。薩摩藩は加賀100万石に次ぐ77万石でした。すべての藩は幕府の下についていて、島津家も例外ではありませんでしたが、それはあくまでも制度上の話であり、実質的には独自路線を築き上げ、幕府も手を付けない藩になります。
江戸時代末期、薩摩藩主の島津斉彬は非常に革新的な考えを持っており、鎖国されていながらも西洋文化を取り入れずに発展はないと考えました。斉彬の改革により近代化が進められました。島津家の庭園・仙厳園に島津斉彬が作られた炉や発電所などが残されております。そして、この当時にガラス細工の薩摩切子が生まれました。斉彬の改革により、薩摩藩は近代化し、軍事力を強化させました。斉彬の改革が薩摩藩にとっては重要な転換点になります。

そして、神奈川県の生麦で島津久光の行列を横切ったイギリス人を殺傷する生麦事件を起こし、イギリスと徹底的に抗戦する姿勢を崩さない薩摩藩の緊張が高まり、薩英戦争に発展しました。薩英戦争でイギリスの意表を突いたものの、薩摩藩は敗れました。イギリスの賠償請求に対しても拒否する姿勢を固辞し、幕府が賠償金を払うこととなりました。薩英戦争後はイギリスの援助を受けて、軍事力のさらなる強化を図りました。薩英戦争には後の海軍大将・東郷平八郎や陸軍大将・西郷従道などが従軍していました。イギリスの技術を再現できたのは、斉彬が進めた改革のおかげであると言え、斉彬の改革とイギリスの援助が明治維新の原動力になったと言えます。薩英戦争の砲台跡は天保山公園にあります。天保山公園の辺りは埋め立てられていて、今は海岸線とすぐ接していると分けではありませんが、その当時の面影を残しています。

天保山公園

坂本龍馬の仲介のおかけで蛤御門の変で犬猿の仲であった長州と薩長同盟を結び、倒幕へまい進します。薩摩と長州の共通点は外様大名であったあっただけでなく、外国と戦争をし、負けていることです。彼らは直に欧米列強の脅威を感じ、今のままの日本ではまずいと感じたのではないでしょうか。ちなみに、坂本龍馬が妻のお龍と新婚旅行で訪れた霧島温泉も鹿児島にあり、坂本龍馬を鹿児島へ来るように進言したのは西郷隆盛と言われています。

天保山公園近くの坂本龍馬とお龍の像


戊辰戦争で旧幕府軍を倒したのちに新政府樹立しました。その中心メンバーに薩摩出身者は数多くおり、西郷隆盛もその1人でした。廃藩置県や版籍奉還を行い、明治政府の政治体制を確固たるものにしました。ちなみに、主君である久光はそれらに反対していて、決まったときには抗議の意味を込めて、自分の庭園で花火をあげたそうです。

仙巌園と桜島

西郷隆盛は大久保利通らが外国へ視察へ行っている間に征韓論を唱え、帰国した大久保利通らと真っ向対立し、政府を去りました。そして、故郷の鹿児島で蜂起し、西南戦争を起こします。西南戦争で明治政府軍は追い込まれますが、最後は数の力で圧倒し、西郷隆盛が自害し西南戦争は終わりを迎えます。その1年後、大久保利通は東京の紀尾井坂で暗殺されます。
西南戦争の最後の舞台となった城山は地元の人の散歩コースになっており、城山から桜島を望むことができます。城山で200年ほど前に凄惨な出来事があったとは思えないほど、静かな場所です。城山のふもとに照国神社があり、そこでは島津斉彬を祀っています。照国神社の近くに小松帯刀や西郷隆盛の像が立っています。維新ふるさと館で鹿児島県の歴史と明治維新について学ぶことができます。

城山公園からの桜島

悲惨な歴史

鹿児島の歴史でもう1つ重要なのは第二次世界大戦です。戦争末期、特別攻撃作戦、通称特攻作戦がアメリカを圧倒しました。その中心となったのが知覧と錦江湾を挟んで向かいの鹿屋です。知覧の特攻隊は有名ですが、鹿屋の特攻隊は知覧ほど有名ではありません。知覧特攻平和会館同様、鹿屋の航空基地史料館にも特攻隊で旅立たれた方の遺品が展示されています。それらの展示品を見ると当時の悲惨さが伝わってきます。

知覧特攻平和会館


鹿屋航空基地史料館

知覧は陸軍で、鹿屋は海軍なので大元は違いますが、どちらも沖縄戦における重要な拠点でした。そのため、これらの拠点は空襲のターゲットとなっていました。鹿屋には地下壕の通信室などいまだに残っております。この通信室は特攻隊が任務を遂行、つまり、突撃したことを確認する場所でした。突撃の確認は機体からずっと発せさられている電波が途切れたかどうかを確認していました。通信が途切れた=任務遂行ですが、それは隊員が絶命したことを意味します。通信所で働いていた人の中には特攻隊員と寝食を共にした人もいるはずです。そう考えると非常に悲惨であり、通信所の方はそれを毎日確認していたと思うといたたまれない気持ちになります。

今では知覧はお茶畑が広がるのどかなところで、武家屋敷もあり、歴史のある町です。鹿屋は海軍基地があった名残から今でも航空自衛隊基地がありますが、その周りは非常にのどかな街です。鹿屋は大隅半島で一番大きい市ですが、鉄道は40年近く前に廃線になっており、車でしか行けません。しかし、レンタカーがなくても、鹿児島市内からバスで行くことができます。鹿屋市内には地元のホテルがあるぐらいで、ルートインのようなビジネスホテルがありませんのでご注意ください。一味変わったホテルもあるので、他の街では経験できないことができます。市の中心地にバラ園があり、北部には自然が広がっていて、星が綺麗に見えます。キャンプ場もあるので、海でのレジャーと山でのレジャーを楽しむことができます。鹿児島は日本の中心から離れているとは言え、時代の転換期にはその中心となることが多いところです。歴史を動かした地でそのバイタリティーを感じてみませんか?

最後は鹿児島の観光スポットについて書いていこう思います。

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