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積読に価値はあるか

新年書くチャレンジでも積読について書いたけど、改めて思うところがあったので、記事にしてみる。


積読とは、簡単に言ってしまうと
本を買ったけど読んでないまま積んである状態のこと。


読みかけのままの本なども、ここに含まれるのではないか。


実際僕は結構な積読家である。
人におすすめされたり、SNS(おもにTwitter)で興味を惹かれたりした本、その中でも自身が注目している人や憧れている人が紹介していたりするとついつい買ってしまうことが多い。

そういう人たちが読む本は、「間違いがない」とか「これを読めば同じような思考・技術に近づける」とかそんな思いがあるからだ。



では、いざ買って読んでみようかと手にすると、これがまた全っ然意味わからないということが非常に多い。

その理由としては、
・そもそもその本を読む土台となる専門知識が全くない
・書いてある内容が高度過ぎてついていけない
・僕自身に読書スキルがまだ十分身についていない
・思っていたより内容に興味や価値を見出せない

‥などがある。


買って失敗だった!とまでは流石に思わないけれども、
自分には向いてなかったとか早過ぎたとかそう思うことはしょっちゅうある。


そして、そういう本はそのまま、いつか読むかな‥とかせっかく買ったし‥という貧乏根性丸出しな理由で棚にしまったままになってしまうのだ。

あぁ、もったいない。




では売ればいいじゃないかという声もごもっともである。読まずに積まれた大量の本は、それなりにスペースも取る。

片付けコンサルタントの"こんまり"こと近藤麻理恵さんも、

処分に迷うような本はどうせ読まない。
縁があれば、再び手に取るはず。
意訳

という。本は確かに読まれて初めて価値がある。
一部、部屋を飾るインテリア的価値もあるにはあるだろうが、僕はそもそもその価値を使いこなせる状態ではない。(というかそもそも片付けが苦手なのでそれ以前の問題)


‥で、あれば古本屋に持ち込んで、誰かに読んでもらったほうが本も幸せだろうし、僕にもささやかなスペースと小金が手に入る。win-winだ。


それでも、あまり古本屋に持っていかないのは、最近積読の中から読み返して面白い!と思うことが多いから。



かつてはパラパラめくって「難しい」「よくわからない」「あまりピンとこない」「気が向いたら読もう」という本を数年ぶりに手に取って、いざ読んでみると
「面白い!」「よくわかる!」「もっと早く読めばよかった!」
となることがある。

本を買った当時から、僕の知識や経験が増えたからなのか、アンテナが増えたからなのか、はたまた僕の視点や問題意識が広がったからなのか‥
理由は様々だけれども、結構読み返すことで新たな発見が出てくる。

そう思うと、積読は決して価値がない訳ではないと思う。自分の中で、然るべきタイミングが来た時にちゃんと積読の中から本を手に取るようにできているのだと思う。だって、一度は自分が興味関心を持って手に取ってるはずだから。



また、玉川大学の谷教授は、

雑誌は買って取っておくことに意味がある。バックナンバーに意味がある。背表紙や見出しを見て、何か調べたい時、学びたい時は関連する記事を取り出して、見比べたりまとめたりすることができる。それが雑誌の良さである。
意訳

と言っているが、これは本についても同様だと思う。

積読が増えていくと、その中には同じようなテーマに関する本も必然的に増えてくる。(その当時関心があったものを買っているから尚更)


例えば僕は、小学校に務めているので、
・学級経営に関するもの
・授業スキルに関するもの
・特別支援に関するもの
などでたくさんの本がある。


そろそろ新年度に向けて色々考えようとなった時、同じ内容を扱っている本を取り出し、読んでいくことで大事なエッセンスを見出すことができるはずだ。


それまであまり開いてこなかった本も、他の本と関連づけながら読むことで理解が深まったり、新たな視点を得られたりすることも多い。



多読家の人を見ると憧れるし、凄いなぁと思う。

でも、積読はどこかのタイミングで、思わぬ価値を発揮してくれる。と信じている。

だから、片付けの時などにパラパラめくって、少しでも
この本、いつか読みそう‥とかよくわからないけどいつかちゃんと読みたいんだよなぁとか思った本は、ぜひ積読してもらいたい。僕はそうする。


もっとも、「読んだだけ」「理解したつもり」に終わってしまっては、積読を解消したとして価値ある読書にはならないのだけど‥それはまた別で記事に書けたらと思う。(そういう記事が書ける領域に達したい)

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