見出し画像

1.事件は現場で起こってる 2.文学的羞恥プレイ

週に4回ほど、サウナに行く。
サウナに毎日行くよ、と言う人にとってはそれは少ない数だし、そうでない人にとっては多いかもしれないし、どちらとも言えない微妙な頻度だけど、このごろのわたしにとって「サウナに行く」ということは、家の風呂かサウナか、くらいの、ごくごくゆるい選択にすぎない。
忙しいやら体調のせいやらなんやかんやでサウナに行けない日が何日か続くと、なんとなくからだのなかがモヤモヤしてきもち悪くなってしまうので、そういう時のサウナは抜群に気持ちいい。でもやっぱりいまのわたしにとって、サウナは「日常の延長」なのであって、特別な体験ではなくて、久しぶりのサウナもたとえるなら「3日風呂に入ってなかったわ!」みたいな爽快感。
サウナが日常になったらいいな、とおもっていたし、「わたし」というちいさな世界に限ればそれは、わたしが望んだとおり、「文化として根付いて」いるといってもいいかもしれない。かもしれない。言い過ぎかな。
すくなくともわたしの人生は、わたしの望んだとおり、サウナと共にある。

それでもときおり、思い出す。
今日はサウナに行くんだ、とワクワクしていた、あの頃のときめき。
今、どうしてもサウナに行きたい、とすがるような気持ちで走った、あの頃の渇き。
ひとり電車とバスを乗り継いでサウナに向かった、あの時の熱量。
あの時の、あの頃の、と言ってもここ1年くらいの話だけど。
「日常」に落とし込まれたことは、嬉しくもあり、すこしだけ、寂しくも、また、ほんのすこしだけ、つまらなくもある。

年に数回の旅行で特別なサウナ体験をするのは完全な「ハレ」なので別として、いまわたしのなかで必要なのは、日常的に行く「ケ」のサウナを、完全なる「ケ」あるいは「ケの延長」だけでなく、「ケの中のハレ」と、よりはっきりと区別すること、なんじゃないかな。

ただ、やっぱり2日サウナに行かないと(きもち的な)具合が悪くなってしまうから、「頻度を落とす」以外の方法を目下、模索中なのでした。

という日記を書いていたけど、3日ぶり、おまけにきもちが落ち込んでドロドロに停滞しておそろしく飢えた状態でのサウナは完全に理想的なそれで、でも良い状態にするためにあえて飢えさせるとか、苦しい状態にする、っていうのは精神衛生上良くない気もしていて、はあ、もう、どうしたもんか、はあ、まあ、もう、きもちよければ、なんでもいいか。

ひとつたしかにいえるのは、サウナじゃない場所で考えたサウナについての「お考察」なんて、恥ずかしくて世に出すようなもんじゃないなってこと。ああ、恥ずかしい。気持ちいい。