「無言清掃のすすめ」がおかしいことが伝わらない|HSPの哲学のススメ

密かに各地で「無言清掃」がブームというか導入されているらしいのだが、なぜ導入しようと大人はするのだろうか?と不思議に思った。

そもそも長野県の無言清掃がNHK記事になり、テレビや他のWEB新聞でも掲載されているようだ。

長野県の文化とまで言われているけど、実際は長野県の7割。微妙。

長野県の無言清掃導入分布

「無言清掃」が広まったとされるのは1970年代。中学生の非行が社会問題になっていた時期だったといいます。そこで竹内先生が目をつけたのが寺の修行で行われていた清掃でした。

なぜ長野の学校は無言清掃?

ここまで聞いても、「寺の修行がなぜ学校教育で導入する必要があったのか」謎である。学校と寺は違う。長野県は寺が多いと自負している(というほど、実際住むと多くない、大きくない、荒廃しているわけだが)ので、寺で子供たちを集めてやればいい。
というか、非行中学生が社会問題にまでなっていたら、掃除なんてするのだろうか、言ってることはわけわからない。

目的は、教育現場で、多くの生徒を一度に管理し、指導することが求められるため、簡易な方法が好んだもので、無言清掃は、教師が指示を出す手間を省くことを重きにおいていると考えられる。

実際、導入して子供たちがどう感じるかは個々で分かれるとは思うが、重要なのは、「教育の目的」はどこかというところになる。

学校教育における「規律」や「協調性」を育むために、田舎はコミュニケーションは都心に比べて非常に少ない。無言、自問は集団でいる学校教育外で機会を求めても事足りる。それよりも無言清掃ではコミュニケーションの機会が奪われ、問題解決能力や協調性の向上には寄与しにくいという点は重要だ。

実際、共同作業においては、コミュニケーションや問題解決のスキルが非常に重要であり、無言での作業はその機会を奪う可能性がある。

実際に長野に住んで、人当たりが本当にいいものの、実践の協調生が非常に低い。成人カップルと同居した際は、「話し合い」が全くできなかった。こと清掃についても、自分はしていると言い張るばかりで、掃除の仕方を学ぶ、共有する姿勢はなく、最後、逆ギレが起きた。

職場でも同じようなことが起きた。普段は品行方正だが、こと自身のキャパシティーを超えると逆ギレ(文字とおり逆ギレや、誤魔化したり、勝手な説明をして間違っていても謝らないなど)する長野県民は多い。

これは長野県だけに限らず、積極的に「無言清掃」を取り入れてしまう田舎地域に当てはまりそうだ。

デメリットの多さ
・相手の状況や確認をしない=独りよがりになりやすい
・さも正しいという意識が強いので、折り合いがつかないと逆ギレが起こる
・意見交換がないので多様性に欠ける
・自主性=自身の内向意思と勘違いしがち
・生産性の重要性に気づけない

一生亀の背中の上の生活をするのなら、それはそれで正解なのだろうが、世界に目を向けて生きていく子供達の可能性を考えるとデメリットの方がはるかに大きい。そして、それに気づけない大人が7割は日本にいるのかと思うと背筋が凍る。

取材記事が多い中、誰も指摘しないことに驚いている。いや、ちゃんとやめようと謳っている記事も個人でみつけた。

上記のデメリットは、結局いじめの構造につながっていく。そして、タチが悪いのは、美徳の自問が相手へのお伺いがなく自己の「正義」となりやすく、みんな悪いことしていない、むしろ、正しいと思ってやっているという、いじめになっている構造を認識すらできず、実態がいじめとなっているかもしれない。と思い始めてきた。「無言清掃=いじめ」は流石にいいすぎなのだが、そもそも、美徳として無言清掃を導入してしまうマインドが非常に危険だ。

目的と行動が一致してない。それに気づけない。深掘りできない。話し合えない。

移住して、上記のことだけではなく、全体的に本当にメンタル不全が長野県は多い。その理由はわからないが、未成年自殺者ワーストの理由にはつながるように思える。

月並みなことをここでまとめてとしていうのならば、

無言清掃は一見効率的に思えるかもしれないけれど、コミュニケーションの機会を奪い、教育の本来の目的を果たせていない可能性がある。教育方法については、地域や伝統だけでなく、現代の教育理論や実践を反映させることが求められる中で、地域や教育の現場での変化を促すためには、教師や教育関係者が積極的に改善を考え、実践することが重要なのだろう。

あなたたちの背中をみて子供は育っている。

目的と行動は一致しているのか、それは公平なのか。

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