国語の"正答"とは何か#1

 「このときの作者の気持ちを答えなさい」
 よく揶揄される、こういった国語の問題。実際に多いのは「主人公の気持ち」や「作者の意図」といった作問であって「作者の気持ち」はそりゃ知ったこっちゃないわ、締め切りに追われているわ、となるのだが、それはそれとして、『国語の正答』に関してはいろいろと考えることがある。
 結論から言ってしまえば、こういった古来からの国語試験の正答とは「目に見えるものを拾えるか(これが俗に言う"読解力"の正体なんだと思う)」「教えた先生の結論を覚えているか、きちんと先生の話を聞けて理解しているか」というだけのものだ。そこに想像力や意見を創る力、ましてや行間を読む力は必要ない。それらを必要とするのは、新しい入試で果敢に取り入れられる小論文形式等のものであろう。
 ただ問題点は、教育の場でそういうことが明示されていないことにあると思う。だから「国語の点数がほしい生徒」は間違った方向の努力をしがちで、「読書は好きなのに国語という教科にはもやもやしている生徒」はいつまでも納得がいかない。
 私は国語が好きだ。その上で、国語の正答に対する考えには、「学生時代の私」と「小中学生の国語の塾講師となった私」の二柱が立っているように思える。

 というのも、学生時代の私も国語という科目が好きだった。良い思い出ばかりが残っている。
 ターニングポイントは確実に中学生だった。ただ、小学生以前の下地があったからこそではあると思う。本を読むことが並みの同級生よりもまあまあ好きなだけの、平凡な女子小学生だった。少女漫画が好きでおこづかいで毎月「なかよし」を買い、ハリーポッターは毎回発売日に親に買ってもらい隙間の時間で読み通した。(これに関しては続きが気になりすぎて放っておくことができなかった。4巻の時は塾へ行きすがら、電車の中でも道でも横断歩道でもあのハードカバーを開いていたくらいだ。最終巻が出たときはすでに高校生になっていたが、ついにやめ時が分からず最初から最後まで一気に読んでしまった。)
 当時習っていたクラシックバレエの発表会で市民ホールを使っていたときは、空いた時間で隣の市立図書館へ通いポプラ社の少女小説を読み漁っていた。ズッコケ三人組にもはまっていた。特に難しい本を読んでいたわけでもなく、ただただ想像を掻き立てられるような楽しい本をたくさん読んでいた。ただ、確かにそこで得た知識はたくさんあったとは思う。
 また、中学受験のために勉強した"国語"も好きだった。小学生の私は趣味の"読書"と問題を解くための"読解"の違いなんてものに気付くこともなく、特に物語に関しては本当に楽しく読んで解いていた。間違えた問題にもあまり納得がいっていなかった気がする。
 対して、説明文・論説文は楽しくなかった。ただ、「作者の結論や言いたいことには線を引きなさい」という塾の先生の指示は、がんばって実行していた。文全体がカラフルになることもなく、わりと良い感じに引けていた記憶がある。
 そんなもんだったので、国語は当時から得意科目だった。こういうタイプの子どもにありがちな「試験問題との相性による波が大きい現象」もばっちりあったが、結局は線引きゲームの地盤が頼りになった。いよいよの入試本番で出題されたエッセイがあまりにも面白くて、私よりも緊張していた母のもとに戻るや否や「国語で出てきた文章がめちゃくちゃ面白かったんだよね」と暢気な感想を口にしてしまったのも、こうして辿れば納得である。

 そんなこんなで入学した中学で私が出会ったのは「ひたすら書く国語」だった。この後、私は「意見が正答として決められた国語」と疎遠になり、その存在を疑問視するようになっていく。
 

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