国語の"正答"とは何か#2

 私自身の中学時代の国語を語るのと同時に、塾社員講師として地元の中学生に国語を教えていたことも並行して語る必要がある。そこには大きな隔たりがあるからだ。

 私が某私立中高に入学して驚いたのは「書かされる量」だった。
 入学時に渡された古風なノートには、学校行事のたびに感想文とも小論文ともつかない自由な文章を書いて提出することを義務付けられていた。
 理科では毎授業の実験や観察のたびにレポートを書かされ、家庭科でも調理実習で作ったものをもう一度家で作り、そのレポートを書かされた。数年先へ行けば、高校の世界史では定期テストの8割が記述式の問題であり、単語ではなく時系列や因果関係こそが最重要となった。
 中学では毎年1冊、全生徒の作文を載せた文集が発行された。夏休みの宿題の1つなのだが、テーマは完全に自由。1年間で起きたことでも良いし、夏休みの思い出でも良いし、社会やニュースに対して思うことでも良いし、自身がふと思っていることでも良い。とにかく、文章で表現するスペースが与えられていた。
 そして肝心の国語である。まず、毎授業1~2人の速度でスピーチが回ってくる。たしか中1のはじめのテーマは「自分の名前の由来」だったような気がする。中3までにはどんどん自由なテーマになっていき、もはや全体テーマがなんだったか覚えていない。自分自身が性同一性障害についてのスピーチをしたことだけを覚えている。
 さらに、最も違うのは定期テストだろう。解答用紙に目立つのは、マス目も何もない、そこそこの大きさの白い長方形ばかりだった。語句文法、作品の基本データの問題以外はほぼ全て、文字数制限のない記述問題なのである。あらかじめ出題されるであろう設問に対する答えをある程度頭の中に用意して臨まなければ、とうてい書ける量ではない。大学での持込可の期末テストを想像してもらうと分かりやすいかもしれない。
 私はその白い長方形に、大きな情熱を燃やしていた。とにかく他の人とは表現力も角度も少し違う、私にしか書けない解答を先生に見てもらおうと毎回意気込んでいた。先生の狙い通りであったり、先生の琴線に触れたりした語句には線を引いて◎をつけてもらえ、それに応じて点数がもらえる。その線が大量に引かれて返ってくることを毎回楽しみにしていた。そして何より、テスト返却の際に一緒に配布される「模範解答集」に自分のものが載っていることを何よりもドキドキしながら期待し、実際に見覚えのある解答がそこに載っていると、胸のうちは飛び上がらんばかりになった。
 という具合で、私が「書くこと」を好きになる地盤が十二分にあったことはここまでの書き口で分かっていただけると思う。

 中3時に、新任の国語の先生の授業が入った。
 何の授業をしていたか今でも覚えている(というか塾講師になって再会したのだが)。光村図書の国語の教科書の重鎮、井上ひさしの『握手』である。
 とにかくつまらなかった。
 先生の経験値の違いもあったのだろうが、そもそも「普通の中学国語の授業」をあまりにもつまらないと思えてしまうような環境にいた。今になって読めば『握手』は面白い物語だし、塾で学校の定期テスト対策の授業をするにはとても分かりやすい答えがある教材でもある。ただ、当時の私には特に後者が気にくわなかった。「あ、それが答えなんですね」と拍子抜けしてしまうことばっかりだった。
 新任の先生自体にも、最初のそういった軋みこそあれど、徐々に慣れてはいった。ただ、他の当校ベテランの先生たちのすごさを思い知るばかりであった。

 ここからは時間を飛ばして、私自身が「地元の公立中学生に国語を教えた」立場になろうと思う。ついでなので、『握手』を例にしようと思う。

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